差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第45回)

レッスン9:年齢差別(続き)

例題5:
あなたは、何歳以上を法律上成人とみなすべきだと考えますか。

 

(1)20歳以上
(2)18歳以上
(3)その他(自由回答)


 年齢差別と言いますと、前回まで見た高齢者差別(広くは高年者差別)が中心的な問題であり、未成年者を含む若年者はあまり差別の対象とはなりません。もっとも、酒やタバコなどの嗜好品の摂取や契約などの法律行為について未成年者には種々の制約が課せられますが、これらは未成年者保護を目的とする制約であり、差別とは別問題です。

 
 とはいえ、法律上何歳を未成年者と定めるかによって、そうした未成年者保護を目的とする制約のかかる年齢層に大きな差異が生じますから、法律上の成人年齢如何は重要な問題です。それを高く設定すればするほど未成年者の範囲は広がり、制約される年齢層も広くなるため、若年者差別(保護に名を借りた転嫁的差別)の域に近づくことになります。

 
 その点、日本の法律(民法)では長い間20歳を法定の成人年齢としてきましたが、2022年4月施行の改正法により、成人年齢が18歳に引き下げられました。これは、明治時代以来100年以上も続いてきた20歳成人制度の画期的な転換です。これにより、未成年者保護に関する法令の適用も大きく変化するからです。
 このような大転換を決めた真の理由は定かではなく、諸国では18歳成人とする例が多いからなどとされていますが、先行して行われていた選挙権年齢の18歳への引き下げに合わせた改正と見られます。

 
 何歳を成人とするかは国の政策の問題とも言えますが、全く適当に決めてよいわけでもありません。成人と呼ぶにふさわしい身心の発達が標準的に備わっている年齢を成人とみなすべきでしょう。そう言ってもまだ決め手に欠けますが、私見は旧法の20歳でも新法の18歳でもなく、19歳とするのがよいと考えています。
 19というのは中途半端な数字に見えますが、日本の現行教育制度上、18歳ではまだ多くは高校生であるところ、19歳になると多くは大学生その他の学生または有職者となりますから、成人とみなすにはちょうどよい頃合いではないかと思うのです。

 

例題6:
[a]あなたは未成年者に選挙権を与えない選挙制度は正当だと考えますか。

 

(1)考える
(2)考えない


[b]([a]で「考える」と回答した人への質問)その理由は何ですか(自由回答)。


 基本的な権利の上で未成年者と成年者とを最も大きく隔てているのが選挙権の有無ですが、例題5でも触れたように、日本では公職選挙法民法より先に改正され、いったんは選挙権年齢が当時は未成年であった18歳に引き下げられたことで、本例題[a]の意義はいったん失効していました。しかし、民法の改正に伴い、18歳成人とされたため、再び未成年者の選挙権は失われる結果となり、例題の意義が復活したことになります。
 
 その点、おそらく現時点では、未成年者に選挙権を与えない制度は正当との回答が大方かと思われます。その理由として、成人年齢が18歳とされたことで、未成年者の範囲が17歳以下に引き下がったこともあり、その年齢層の未成年者は未熟であり、政治的な判断能力を欠いているからという能力問題が挙がってくるでしょう。すると、これは能力差別の領域に入ってくる問題になります。
 
 しかし、果たしてそう断言できるものでしょうか。極論すれば、政治・経済について非常によく学んでいるませた15歳のほうが、政治的に無関心で無知な51歳よりも政治的な判断能力を備えているとみなすことはできないでしょうか。
 さらに、現代では、上述した未成年者の保護に関わる種々の法律のほか、少年法のように未成年者の刑事処分に関わる法律など、未成年者の権利・義務を規定する法律が多数存在することからしても、未成年者自身の意見も反映させるべく、未成年者に選挙権を与える理由はあります。
 
 もっとも、20歳選挙権時代には、20歳に一歳足りないだけの19歳に選挙権を与えないことの不合理性が顕著でしたが、18歳成人‐選挙権となった現在では、17歳以下に選挙権を与えないことは政策として問題ないという理解もできるかもしれません。その意味で、本例題の意義は旧版当時よりは減殺されたと言えます。

 
 ちなみに、被選挙権に関しては、日本の公職選挙法はその下限年齢を25歳(参議院議員都道府県知事については30歳)としています。被選挙権は公職選挙に立候補し、当選後は議員や首長に就任する権利ですから、より高度な政治的判断能力と活動能力とが必要とされ、成年者であってもそうした能力に欠けるとみなされる24歳以下のいわゆる若年成人には被選挙権を与えないという趣旨でしょう。
 
 しかし、被選挙権についても果たして一律にそう決めつけてよいのでしょうか。ここでは、成人でも24歳以下は被選挙権を持たないことになるので、未成年者差別を超えたより広い若年者差別とみなすこともできます。場合によっては(例えば市町村議会議員の場合)未成年者にさえ被選挙権を与えてよいのではないかという疑問もあり得るところですが、この問題にここで深入りすることは避け、宿題とします。

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第44回)

レッスン9:年齢差別(続き)

 

例題3:

認知症が進行して認知機能が著しく低下した高齢者に対して、幼児のように接することは適切な態度だと思いますか。

 

(1)思う
(2)思わない
(3)わからない


 かつては「痴呆症」などと差別的な学術・行政用語で呼ばれていた老人性疾患が「認知症」という新語に変更されても、高齢者への虐待は絶えないようです。こうした虐待は「差別」というよりも「人間の尊厳」の問題としてとらえるほうが適切と思われます。しかし、高齢者虐待という態度のうちには、身の回りのことを自力でこなす能力を喪失した要介護高齢者に対する蔑視も含まれており、その観点からはこれを高齢者差別の問題としてとらえることができるでしょう。
 

 もっとも、本例題は虐待そのものではなく、認知症の進行した高齢者に幼児のように接する態度の是非という変則的な問題です。虐待の多くは家庭内で発生するのに対し(残念ながら、時折施設内でも)、幼児に対するような接し方は老人ホーム等の介護職員の態度にしばしば見受けられます。
 こうした高齢者の幼児扱いは表見的には虐待の対極にあることから、認知症によって物事が理解できなくなり、幼児に返った(と解釈されている)高齢者に対する「優しい」接し方として案外介護専門職によっても容認されているように見えます。
 

 しかし、表面上幼児のようになっているとしても、それは認知症のせいであって、近年の知見によれば認知症が進行しても言葉にならない動機や感情はかなりの程度残存しているとも言われるので(外部記事参照)、本当に幼児返りを起こしたわけではなく、高齢者が長い人生を刻んできた成人であることに変わりありません。
 そのような成人を幼児扱いすることは、それがいかに「優しい」態度であっても、そこには能力を喪失した高齢者への見下しの視線が伏在してはいないでしょうか。これはちょうどレッスン2で見た「障碍者への同情」という態度にも通ずる利益差別の一形態ととらえることも可能です。
 
 このような結論には疑問を感ずる向きもあるかもしれません。たしかにこれは難問ですから、以上が唯一の正答というわけではありません。各自でさらに省察を深めていたいただくことを望みます。

 

例題4:

[a] アンチ・エイジングは人間の理想だと思いますか。

 

(1)思う
(2)思わない

 

[b] ([a]で「思う」と回答した人への質問)その理由は何ですか(自由回答)。


 昨今はアンチ・エイジング流行りのようですが、アンチ・エイジングを差別との関わりで引き合いに出すことをいぶかる向きもあるでしょう。しかし、アンチ・エイジングとは単なる「老化防止」とは異なり、文字どおりにとれば「反・老化」であって、老化に対して明確に否定的な価値観に立った美容健康の理念と実践です。
 
 もっとも、アンチ・エイジングを広義にとると、内臓の健康や精神的な若さを保つといった「内面」の反・老化を含むとも考えられますが、世上アンチ・エイジングは容姿の若さを保つという「外面」の反・老化に圧倒的な比重が置かれています。[b]の設問で尋ねたアンチ・エイジングを理想とする理由としても、「見た目の若さをいつまでも保っていたいから」といった理由が多いのではないでしょうか。
 
 前回の例題1でも若干示唆したように、高齢者はその容姿の衰えを醜悪なものとして蔑視されます。「しわくちゃ」といった形容は、その典型的な差別語です。また「よぼよぼ」といった形容も、基本的には足腰の衰えを蔑視するものではありながら、同時にそうした足腰の衰えた弱々しい容姿を蔑視する表現でもあります。
 アンチ・エイジングという語も、これを差別語と断定すれば反論があるかもしれませんが、この語は少なくともその反面において高齢者を差別するニュアンスを含んでいるので、反面差別語には当たると考えるべきでしょう。
 
 もっとも、当の高齢者自身がアンチ・エイジングを実践しているならばどうなのでしょうか。これはレッスン1でも取り上げた美容整形の問題と類似しています。そこでは自身の容姿を醜いとみなして美容整形するのは自己差別であると理解しました。同じように、自らの「しわくちゃ」「よぼよぼ」の将来的な容姿を醜いと感じ、アンチ・エイジングに励む高齢者も一種の自己差別を実践していることになります。
 
 ところで、例題では尋ねていませんが、設問[a]でアンチ・エイジングを人間の理想とは思わないとする人の理由は何でしょうか。答えはいろいろあり得ますが、人間は年相応の容姿を持っていても恥じる必要はなく、大切なのは「外面」より―内臓も含めた―内面である、ということでしょうか。
 だとすれば、これも理論編で見た命題30「内面性の美学」に帰着することになります。つまり、差別の問題とは容姿差別に始まり周回して再び容姿差別へ立ち戻ってくる性質を持つ問題なのです。

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第43回)

レッスン9:年齢差別

レッスン9では、差別の三丁目三番地に当たる年齢差別に関する練習をします。

 

例題1:

[a] 雇用に際して年齢に上限を設けたり、年齢の若い者を優先採用したりすることは合理的だと思いますか。

 

(1)思う
(2)思わない

 

[b] 雇用における定年制はあったほうがよいと思いますか。

 

(1)思う
(2)思わない


 設問[a]は雇用の領域における典型的な年齢差別の事例です。現にこのような差別を受けて職が見つからず、生活難に陥るという事態も少なくないかもしれません。それにしても、なぜ雇用上の年齢差別が根絶されないのでしょうか。その要因は、設問[b]の定年制とつながっているようです。
 
 おそらく設問[a]で年齢差別的な雇用慣行に否定的な回答をした人の多くも、設問[b]では従来雇用慣行として確立されてきた定年制には肯定的な回答をするのではないかと推測されます。しかし、それは果たして一貫した論理と言えるのでしょうか。
 実際のところ、定年制自体、年齢のみを理由に一律に労働者に退職を強いる差別的な制度ですが、ここでは高齢者=職業的無能力者という能力差別的な決めつけもなされているわけです。
 そして、こうした年齢‐能力差別的な定年制を土台として、[a]のようないわゆる現役世代に対する年齢差別慣行も成り立っているわけですから、定年制を合理的と考えるならば、定年に近い年齢であればあるほど採用されにくいという現実は受け入れざるを得ないことになります。
 
 定年制を合理的と考える理由として、定年制がなければ高齢者がいつまでも居座ることによって、新卒者の就職が困難になるという問題が挙げられるかもしれません。
 たしかに一理ありますが、逆に新卒一斉採用‐定年制という画一的な雇用慣行―これは日本社会では際立って強固に定着しています―のために、新卒で就職を逃すと、年齢が上がるほど設問[a]のような年齢差別を受け、就職が困難になるという連鎖が生じてきます。
 それを考えますと、加齢が業務遂行を困難にする一部の職種を除いて、定年制を廃止し、もって年齢差別的雇用慣行全般を廃したほうが、人生設計に柔軟性が生まれ、すべての人にとって有利になるでしょう。
 
 その点、近時は年金財政の逼迫を背景として、年金受給開始年齢引き上げの代償としての定年制廃止論(または定年延長論)も起きています。しかし、これは当面の財政経済事情に対応するための「対策」レベルの話であって、「誰もが年齢にかかわりなく就労できるようにする」という雇用における年齢差別解消策とは全く異質の論です。
 これでは形の上で定年制が廃止されたとしても、高齢者の雇用は多くの場合、低賃金の不安定労働にとどまり、無年金を補うだけの効果は得られないでしょう。
 
 ところで、定年制を廃止してもなお残存するかもしれないタイプの年齢差別があります。その一つは、「中高年者は若年者に比べ、体力的にも知的にも劣る」というストレートな能力差別的認識に基づく差別です。
 このような認識は一見すると常識的に思えてきますが、必ずしもそうではありません。たしかに体力的には若年者が勝りますから、体力勝負の肉体労働における若年者優先採用は差別とは言えませんが、知的労働に関してはそうとは限らないのです。

 その点、以前の記事で、成人向け反差別教育に関連して述べたことですが、人の知性(知能)には、新しい環境に適応するために、新しい情報を獲得し、それを処理し、操作するのに必要な処理の速度、直感力、法則を発見する能力としての「流動性知性」と、個人が長年にわたる経験、教育や学習などから獲得していく言語能力、理解力、洞察力などを含む「結晶性知性」とがあります。
 
 両者の関係性として、いずれの知性も成長過程で伸長するのですが、「結晶性知性」は成人以降も上昇して60代でピークを迎え、高齢になっても安定している一方、「流動性知性」は10代後半から20代前半にピークを迎えた後は低下の一途を辿るとされています。そうだとすれば、「結晶性知性」を要する職種に関しては、むしろ中高年者のほうが適任とさえ言えるわけです。

 
 定年制と無関係に残存するもう一つの差別事象は、とりわけ女性の雇用に際しての年齢差別です。この場合は、若い女性に囲まれて仕事をしたい男性管理職層の隠された欲望が根底にあり、その本質はレッスン4で取り上げた性別差別です。
 
 ただし、職場によっては男性の採用に際しても、中高年者より見栄えの良い若い男性を優先採用する慣行を持つところもあり得ますが、そうした場合も含めてとらえれば、定年制と関連しない年齢差別は、レッスン1で見た容姿差別の問題につながることになります。
 後に別の角度から再検討しますが、高齢(高年)者は能力ばかりでなく、容姿の衰えという観点からも差別される存在と言えるのです。

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第42回)

レッスン8:職業差別

[まとめと補足]

 職業が世襲的身分と不可分一体であった前近代において職業差別は身分差別、ひいては階級差別と同義でありました。しかし、産業社会における複雑な分業制の下、職業が理論上―あくまでも―“自由に”選択可能なものとなってくると、職業は個人の人格と結びつけられるようになります。
 ことに何ら職業を持たない「無職」の人間がそれだけで人間失格者のような差別的扱いを受けるのは、自給自足制が完全に崩れ、高度な分業制が確立された社会においては、「人間=職業人」という等式が支配的になるからです。
 
 このように、現代の職業差別は後に取り上げる犯罪者差別と同様に、人格価値の優劣に関わる差別であるため、外面的な視覚的表象とは無縁のようにも見えますが、決してそうではありません。
 
 職業差別では被差別者との社会的接触を忌避する「不可蝕」の形態をとりやすいと指摘しましたが、この「不可蝕」とは被差別者を「汚らわしい人間」とみなす視線に由来しています。なぜ特定の職業に就いている者を「汚らわしい」とみなすかと言えば、その職業はたいていゴミや汚物、血などを扱う「汚れ仕事」だからです。
 このことは、日本の前近代における職業=身分差別にあっても、そうした「汚れ仕事」を都市から委ねられていた最下層身分者をケガレとみなしていたことにすでに表われています。このケガレはまだ宗教的観念の域を出ていませんでしたが、これが近代的な衛生観念に置き換わるや、今度は「不衛生な職業」に就いている者への蔑視に変容したのです。
 もっとも、無職者に対する差別の場合にはそうした視覚的表象はあまり介在していないように見えますが、野宿生活者に対する差別となると、野宿生活者の「汚い」外見に対する嫌悪や憎悪すらも込められた視線に由来していることは明らかでしょう。
 
 こうした職業差別事象の中でも、歴史的な沿革を持つカースト制や部落差別に関しては、まがりなりにも社会問題として自覚され、克服の取り組みも政策的なレベルでなされてきたところですが、「3K」問題や野宿生活者問題などの現代的職業差別事象についてはいまだしであり、ともすれば「3K」仕事を外国人労働者に押し付けようとしたり、「浄化作戦」のように差別的な政策的対応がなされることもあります。
 
 職業差別はそれを抱える各国の社会経済構造とも密接に関連するため、その根本的な克服は単なる〈反差別〉の視座を超えた問題ですが、さしあたっては、職業と人格とを直結させる思考法を改めることが肝要です。
 
 つまり、「汚れ仕事」に就いていようと、また職についていなかったり、野宿生活であったりしようと、人格的に尊敬に値する人は存在する(逆もまた真なり)という認識です。考えてみればごく当たり前のこの真実を再確認すればよいだけです。
 これは、外見の美/醜だけで人間の人格価値を見定めず、内面の美を重視するあの「内面性の美学」(命題30)の活用場面の一つであることにも気づかれるでしょう。

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第41回)

レッスン8:職業差別(続き)

 

例題4:

[a] あなたの家の近くに被差別地区Aがあるとします。あなたは自分の子をA地区の子と一緒に遊ばせますか。

 

(1)遊ばせる
(2)遊ばせない

 

[b] あなたが結婚を前提に交際中の相手から、ある日、被差別地区の出身であることを告白されたとします。あなたはどうしますか。

 

(1)別れる
(2)交際を続ける


 近代以前にあっては、職業と世襲的身分との結びつきが強かったため、職業差別=身分差別でありました。それが今日まで継承されているのがインドの「カースト制度」です。一方、もはや身分差別の実態を喪失しながら旧被差別身分の子孫が現在も集住しているとみなされる特定地区の住民が差別されるのが日本のいわゆる「部落差別」であり、本例題はこの問題に関わっています。
 
 こうした歴史的な身分差別に根源を持つ職業差別が例題1のような現代の「3K問題」とやや異なるのは、前者は本例題のように被差別者との社会的接触を避ける「不可触」という形態を取りやすいことです。インドの最下層カーストに属する人々がかつて「不可触民」と呼ばれたのは、その象徴です。
 
 中でも、[a]のように子供同士の不可触は、大人同士の場合とは異なり、親の“教育的配慮”という大義名分をもって正当化される転嫁的差別の典型例となりやすいのです。
 例えば、自分の子をA地区の子と遊ばせないという場合、その理由として「A地区には不良が多いから」といったことが挙げられるかもしれません。「A地区に不良が多い」ということが中傷でなく真実だとすると、一理ありそうに見えますが、A地区の子どもたちのすべてが不良ではない以上、この理由づけは一部の事例を一般化して差別を正当化する転嫁的差別となります。
 
 当然ながら他の地区と同様、A地区にも問題のない子どもたちが存在しており、あなたの子が遊びたがっているのは、そういう子かもしれません。我が子を不良と接触させたくないということであれば、それは何地区であろうと関係ないはずです。結局、どのように正当化しようとも、我が子をA地区の子とは一切遊ばせないという対応は、差別と言うほかないでしょう。


 一方、[b]はこれまでのレッスンでもしばしば出てきました結婚をめぐる差別問題です。ただ、今までの例はいずれも相手の容姿や人種/民族、病気などの個人的属性が被差別理由とされる場合でありましたが、ここでは出身地区という地縁に関わる事柄が被差別理由とされる点で複雑なところがあります。
 
 まず、あなたが相手の出身地区と全く無縁の土地の出身であれば(例えば、相手は関西出身であなたは北海道出身であるなど)、出身地区だけを理由に別れるというようなことはまずないでしょう。
 しかし、あなたの出身地が相手の出身地区と地理的に近いというような場合は問題が生じるおそれもあります。それでも、直ちに別れるという人は少ないかもしれませんが、あなたに別れるつもりがなくても、親をはじめとする周囲の反対に遭うということがあり得るからです。
 
 相手の個人的属性が問題であるならば、自分の結婚意志を押し通すこともできるでしょうが、地縁が絡んでくるとそれが難しいことがあり得ます。最終的に、周囲の圧力により別れざるを得ないこともあり得ますが、この絶縁はあなたの本意ではないから、差別には当たりません。この場合、差別したのはあなたに圧力をかけた周囲の人たちということになります。
 
 ただ、現行民法上、結婚はあくまでも当事者の自由な意思によってのみ成立し、親の同意は必要ありません。このことは憲法24条でも確認されている大原則ですから、周囲の圧力にかかわりなく、自分の意志を貫くことは包容行為と言えるでしょう。
 実は、戦後、憲法原則にまで高められた自由婚の原則は、本例題に典型的に見られるような結婚をめぐる差別を解消することをも目指しているのですが、慣習上、結婚に親や親類が干渉することが今日でもまだしばしば見られることから、結婚をめぐる様々な差別問題もなお残存しているわけです。

 

例題5:

[a] 被差別地区の生活環境改善や差別解消のために公費を投じて行われてきたいわゆる同和対策事業は税金の無駄使いだと思いますか。

 

(1)思う
(2)思わない
(3)わからない

 

[b] いわゆる再開発によって、被差別地区そのものを解体するという政策は適切だと思いますか。

 

(1)思う
(2)思わない

(3)わからない


 本例題は、より政治政策的な問題に関わってきます。昨今、「税金の無駄使い」排除論は盛んですが、それが真に税金の不当な浪費的支出を是正することを目指す議論と実践ならば、もちろん正当です。
 ただ、「税金の無駄使い」というフレーズが転嫁的差別の言説として用いられることもあり得ます。特に、それが本例題のような差別解消のための公的な施策に向けられているときには要注意です。
 
 “同和利権”といった用語も、同和対策事業に関する否定的な文脈の中でしばしば聞かれることがあります。たしかに、同和事業絡みの汚職事件もあったりするようですが、従来、日本社会の利権腐敗は広い範囲に及んでおり、同和関連だけではないにもかかわらず、ことさらに“同和利権のみを問題視するのは、社会正義に仮託した転嫁的差別の疑いもあります。
 
 とはいえ、実際、同和対策がそうした利権的問題を生じさせる背景には、同和対策事業の方法や内容をめぐる問題点も伏在しているように思われます。
 そもそもこの同和対策事業は根本的に部落差別そのものを克服することよりは、被差別地区に対する様々な利益供与を通じて、対象地区の生活環境の改善を図ることに力点があり、本質的に行政主導性の強い施策です(そのため、1980年代からは「地域改善対策」に名称変更されました)。
 
 その点、近世の都市でも清掃や夜警その他一定の公共的仕事を委託していた最下層民の共同体に祝儀のような形で一種の生活援助を与えていたことが知られていますが、同和対策という施策にはこのような前近代的施策の現代版としての側面も認められるのではないでしょうか。なるほどそうした施策によって生活改善などの実際的効果が上がった面はあるにせよ、それはむしろ差別の構造を温存するものであり、根本的な差別の解消にはなお遠いのではないかと考えられるのです。
 
 あえて大胆に提起するなら、同和対策とは懐柔の意味すら帯びた一種の利益差別政策ではなかったでしょうか━。
 国レベルの同和対策事業は2002年をもって終了した現在、同和対策事業の功罪について現代史的な視点からの検証を行う必要があるでしょう。このことは事業を「無駄」という視点から「仕分け」するのとは意味が違います。「無駄」という功利主義的な視点から「仕分け」(=選別)するのは、対象が生身の人間であれば、生きるに「値する者」と「値しない者」(=無駄な人間!)の選別という発想ともだぶってきかねないところがあります。そうした意味で「無駄排除」といったスローガンが不用意な形で普及することには懸念もあるわけです。
 
 一方、[b]の事例はもはや同和対策というレベルのものではなく、そもそも被差別地区そのものを再開発によって解体し、なくしてしまおうという策です。「被差別地区」なるものが残されているから差別が残存してしまう━。そういう発想に立って差別の根元を絶ってしまおうという趣旨です。
 
 この発想には、障碍者差別に関連してレッスン2で見た出生前診断と似たところがあります。出生前診断を奨励する立場は、診断結果に基づいて障碍のある胎児を中絶すれば、そもそも胎児性障碍者がこの世に生まれないことになり、差別もなくなり、教育・福祉に公費を使う必要性もなくなるという発想によっています。それだけに、事実上先天性障碍者の存在価値を否定するに等しい差別思想ではないかという批判も強いのでした。
 
 被差別地区解体論も、同様にそもそも被差別地区が存在しなければ差別は消滅し、「対策」も必要なくなるという発想をとる点では出生前診断と似ているのですが、異なる点もあります。
 障碍はそれを「個性」とみなす当事者がいるほど個人的なアイデンティティともなり得る属性であるのに対し、非差別的地区は近代以前に最下層階級に落とされた人たちが生きていくために形成を余儀なくされた共同体を沿革とするものとされ、これを障碍のような個人的属性と同視することはできません。
 
 本来あるべきでなかった被差別階級のゲットーのような地区は存在しないほうがよいのではないでしょうか━。
 もちろん、被差別地区解体といっても、そこに代々住み続けてきた人たちを強制転居させるようなやり方ではなく、旧住民の継続的な居住権を保障しつつ、宅地開発によって新規住民も受け入れ、地名変更を伴う様々な街作りを推進するのです。そして、被差別地区出身の新しい世代の人たちが全国に散らばり、一般市民化されていけば、部落差別は歴史書の中にだけ収められることになるでしょう。
 
 以上、冒頭でも指摘したとおり、本例題は本連載の中でも政治性の強い問題で、当事者からの異論もあり得るところと思われますので、今後実りある社会的な論議が必要でしょう。

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第40回)

レッスン8:職業差別

レッスン8では、差別の三丁目二番地に当たる職業差別に関する練習をします。

 

例題1:
[a] あなたはいわゆる「3K仕事」(きつい、汚い、危険な仕事)に就いてみたいと思いますか(すでに就いている人は、続けたいと思いますか)。

 

(1)思う
(2)思わない

 

[b] ([a]の設問で、「思わない」と答えた人への質問)その理由は何ですか(自由回答)。


 「3K仕事」に積極的に就いてみたい(続けたい)という人は多くないでしょう。そのこと自体が差別に当たるわけではありません。問題は、就きたくない(続けたくない)理由にあります。
 その点、多くの人は「大変だから」とか、「自分には向いていないから」といった理由を挙げ、「「3K仕事」は低級だから」という理由を露骨に持ち出す人は少ないかもしれません。それでも無意識のうちに特定の仕事を蔑視しているとすれば、それは無意識的ではあれ、転嫁的差別に当たります。
 
 一般的に、精神労働は肉体労働より「高級」であるという能力差別的な優劣観は社会的に根強く存在すると思われ、肉体労働の中でもとりわけ「3K仕事」は肉体労働を志向する人の間ですら忌避されがちな底辺労働を成しています。
 もっとも、今日、先進的産業社会の「3K仕事」は世襲される特定身分の人々に押し付けられているわけではありませんが、そうはいっても、忌避されやすい「3K仕事」を一部の人たち(たいていは低学歴者や外国人)にしわ寄せしている経済構造は差別的と言わざるを得ないでしょう。
 

 そこで、「3K仕事」には比較的高賃金を保障することで人を呼び込もうという策もあり、現にそのような職もあるようです。これは相対的高賃金を保障することで「3K仕事」の社会的地位を高めることを目指す限りでは積極的差別是正策のようにも見えますが、“賤業”ゆえの人手不足を防ぐための術策という側面が目立ちすぎれば、かえって優遇して差別する利益差別の要素が生じてきます。
 本来、「3K仕事」の中でも危険なもの―危険防止のため一定の技能を要する―は専門資格化し、さほど危険ではないが「きつい」「汚い」ものは「仕事」でなく、全社会成員の「任務」とすることが望まれますが、これは現代の資本主義的な分業体制そのものにメスを入れることを意味するので、〈反差別〉を超えた課題性を有することになります。

 

例題2:
「無職」という肩書きないし属性分類は差別的だと思いますか。

 

(1)思う
(2)思わない


 例題1は特定の職業を持つことが差別の理由となる場合でしたが、今度は職業を持たないことが差別の理由となる場合です。その点、日本社会では「無職」という語がまるでそれ自体一つの肩書きでもあるかのように用いられるため、この用語自体を差別的と思う感覚は希薄かもしれません。
 
 しかし、犯罪報道でよく見かける「住所不定・無職」という表現になるとどうでしょうか。これはたいてい犯罪の被疑者・被告人の“肩書き”のように添えられるもので、「無職」という語が犯罪と結びつけられることによって、いかにも反社会的な人物というイメージを高める働きをしていますから、ここでの「無職」には、はっきりと差別的ニュアンスが込められていると言えるでしょう。
 
 これに対して、失業者や定年退職者、専業主婦を「無職」と呼ぶことには格別差別性はないように見えますが、それにしても職がないことをそこまで明示・強調しなければならないものでしょうか。
 職を失った結果暫定的に無職となった人ならば「失業者」、退職して年金を主な収入源としている人ならば「年金生活者」と呼べば十分なはずですし、それ以外の理由から現在無職である人については格別の肩書きは必要ないと思われます。その点、「専業主婦」は主婦を一つの「(職)業」とみなす用語として興味深いものです。
 
 ちなみに、「職」とは、貨幣経済が定着した資本主義社会においては、金銭報酬を得て反復・継続する仕事のことを意味しますから、反復・継続していてもそれによって金銭報酬を得ていない仕事は「職」とはみなされず、せいぜい“自称○○業”という「無職」に近いニュアンスを醸し出す肩書きをあてがわれてしまいます。
 結局のところ、「無職」という語はそれ自体として差別語であるとまで言えないとしても、職がないことを無能力ないし怠惰ゆえの社会的な欠格事由とみなす差別的ニュアンスが言外に込められた前差別語とみるべきものでしょう。

 

例題3:
あなたの住む街に、野宿生活者の人たちが住み着いている一帯があるとします。地元自治体では住民からの苦情を受けて、この一帯から野宿生活者を追い出す「浄化作戦」を開始しました。あなたはこのような「作戦」を支持しますか。

 

(1)支持する
(2)支持しない

 

 本例題は例題2で扱った「無職」問題の応用のようなものです。野宿生活者の中には廃品回収などの3K仕事をしている人もあり、必ずしも野宿生活者=無職ではないのですが、野宿生活者は無職のイメージが強く、なおかつ住居を持たないことから「ホームレス」と呼ばれたりもします。
 しかし、この「ホームレス」という語も「住居がない」ということをことさらに強調するもので、「無職」(=ジョブレス)と同様に前差別語とみるべきものでしょう。「ホームレス」の人々は野外を事実上の生活の場としているからには、「野宿生活者」と呼ぶのが穏当です。
 
 なお、しばしば「路上生活者」という用語も使用されますが、野宿生活者のすべてが「路上」で生活しているわけではなく、公園とか河川敷に住み着いている人も少なくなく、「路上」で生活している場合も、多くは地下道などの「路傍」に陣取ることが多いので、「路上生活者」という表現は実態に合っていません。
 ただ、これが差別語ないし前差別語かと言えば難しいところですが、「路上生活」という部分に、通行を妨げているとか、環境を汚しているといった否定的イメージが込められているとすれば、少なくとも前差別語とみなせる余地はあるでしょう。
 

 実際、野宿生活者に対する蔑視には激しいものがあり、偏見を抱く人(しばしば未成年者)によって野宿生活者が襲撃・殺傷される事件もたびたび起きています。これは典型的な差別的憎悪犯罪(ヘイト・クライム)に当たります。
 例題のような当局による「浄化作戦」は、こうした野宿生活者への蔑視を助長する要因ともなり得ます。「浄化」といっても、これは宗教的な観点からするケガレの除去を意味しているのでは全然なく、端的に野宿生活者を街のイメージを汚す迷惑な存在として排斥の対象とみなしているからです。
 
 当局では、こうした施策を展開するに当たって「保護」という名分を掲げ、実際、野宿者に対して宿泊所などへの入所や生活保護の申請を促すこともあり得ます。真に脱野宿化を促進する福祉的施策ならば差別には当たらないわけですが、「浄化」と「保護」の区別はしばしば微妙です。真に「保護」と言えるかどうかは、その施策の内容を立ち入って検証しなければ判定できないでしょう。
 
 残念ながら、現状では、例題のような「浄化作戦」を積極的に支持する意見も少なくないと思われますが、それは野宿生活者=怠け者といった偏見が社会に定着しているせいでもありましょう。
 しかし、職の喪失が住居の喪失、結果としての野宿生活につながりやすいことは容易に理解できることですから、それは怠け者ではない勤勉なあなたの身にも降りかかるかもしれない生活上のリスクと言えます。そういう意味で、この問題では、我が身に引き寄せて考える「引き寄せの倫理」が有効と考えられます。

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第39回)

レッスン7:知能差別

〔まとめと補足〕

 本連載旧版のレッスンでは、「能力差別」というより広範なタイトルをつけていたのですが、全面改訂に当たり、範囲を狭めて「知能差別」に改題しました。
 続く職業差別、年齢差別と、いずれも広い意味では「能力」に関わる差別に包含されますが、あらゆる「能力」の土台として「知能」があるので、知能差別が出発点となります。ここでは、それらすべてを包括した「能力差別」について、まとめと補足を試みます。

 
 能力差別という問題は、そもそもそれを「差別」と認識すること自体が困難なテーマです。例題でも触れたように、能力は人間に対する正当な評価基準であるから、有能/無能で人間を分けることは差別などではなく、正当な選別(=選抜)だという考え方もあり得るからです。
 しかし、能力差別をめぐっては、一般的に無能をあげつらう言葉として、「馬鹿」「阿呆」「低能」「のろま」「まぬけ」「ぼけなす」等々の差別語が豊富にありますし、知的障碍者に対しても「白痴」「知恵遅れ」などの差別語があり、レッスン1の容姿差別に匹敵するほど差別語の宝庫となっています。能力差別は厳然として存在しています。
 
 こうした能力差別は、日常「差別」として認識されることが少ないわりに、究極的には優生思想とも結び合って、すべての差別事象の根底を成します。最終的にすべての被差別者は、何らかの形で「無能」の烙印を押されると言ってよいでしょう。
 理論編で見た差別の体制化としてのファシズムの中でも極限を見せつけたナチスが、社会淘汰論とともに強固な能力主義・エリート主義の綱領を携えていたことは、決して偶然ではありません。
 ナチスはその25か条綱領の中で、「有能かつ勤勉なすべてのドイツ人に、より高度な教育を受けさせ、もって指導的な地位に進ませるために、国家は国民教育制度全般の根本的な拡充について、考慮を払わなければならない」(20条)と謳っていましたが、この一文の「ドイツ人」を「日本人」に置き換えてみると、そのまま日本の能力主義者のスローガンとしても使えるかもしれません。

 
 ちなみに、ナチスの上記綱領では、先に引いた部分の後に、「我々は、身分または職業のいかんを問わず、貧困者の両親を持ち、精神的に特に優れた資質を持つ児童の教育を、国庫負担により実施することを要求する」とも付加しています。
 これを読むと、一見して貧困家庭子弟にも開かれた教育機会の均等化を掲げているように思えますが、ここでも、ナチスが目指したのは「精神的に特に優れた資質を持つ児童」―それは知的にも優れていることを前提とする―の国家による選抜エリート教育なのです。
 理論編で近代的差別の三源泉として指摘した第一のもの、優生学やそこから派生した社会進化論は、角度を変えてみれば、能力差別の正当化理論であるとも言えます。そうであればこそ、優生学の祖ゴルトンも「遺伝的天才」を称揚し、人為選択(=人間品種改良)による天才の継承といった構想も打ち出していたのでした。
 
 それでは、能力差別の克服のためにはどうしたらよいでしょうか。おそらく「何事かができる」ということを言い表す「能力」という概念そのものを廃棄することはできないでしょう。しかし、「能力」という概念を人間を査定・選別する指標として用いることをやめることならできます。
 元来、「能力」は相対的です。それは能力査定法として現代社会で多用される試験を例に取るとよくわかります。ある試験で何点を基準点とするかによって、優等/劣等の基準は著しく変わってしまいます。そこで、偏差値のように全体における相対的な位置づけを示す指標が持ち込まれますが、これはもはや相対評価の極致です。
 また、ある分野では高い能力を示す人が別の分野では低い能力しか示さないということは、ありとあらゆる分野で高い能力を示す「超人」など現実には存在し得ないことからして、ごく普通のことです。
 
 こうしてみると、「能力」とは、限られた分野における相対的な技量の度合いを評価する指標にすぎないことがわかります。「何事かができる」ということはもちろん悪いことではありませんし、それは称賛や名声を獲得する手がかりともなりますが、そのことを「能力」という相対概念によって査定・選別対象とする必然性はないのです。
 知能指数のようにやむを得ず能力の科学的指標化を行う場合でも、例題1に関連して指摘したように、それは知的障碍の発見と適切な療育へ結びつけるための手段として位置づけられるべきでしょう。
 
 ただし、一つだけ現状ではどうしても「能力」による査定・選別を廃止できない理由があるとすれば、それは次のことです。すなわち、資本主義経済は人間の労働能力に対して賃金という形で金銭評価をせざるを得ないということ、要するに労働力の商品化です。これは、理論編で近代的差別の三源泉の第三のものとして指摘した近代経済学とも密接に関連してきます。
 企業が労働者の労働能力を査定するのは、能力を厳格に評価して賃金を抑制する、反対に割増評価して労働意欲を高めるといった経営戦略からのことですし、学校の成績評価ですら、それは専ら将来の労働力としての値段に関わる優劣評価の意味を帯びています。
 
 そうだとすると、差別につながるような「能力」概念の利用を廃するためには、資本主義そのものの廃止も必要なのでしょうか━。このような問いはもはや本連載の主題を超えてしまうため、ここで立ち入ることは避け、各自の究極的な宿題とします。