「日本社会と差別」の最終回である。差別は世界中すべての国で何かしら発現している現象であるが、差別にも「国柄」が滲み出る。そこで今回は、普遍的な人類的現象である差別が日本社会ではどのような特徴をもって発現しているかについて考える。
日本社会ではしばしば差別の存在自体が否認されたり、過小評価されたりしがちであるが、まさにこの点に、差別現象の日本的特徴が現われていると言える。つまり、日本的差別は非常に見えにくいということになる。
おそらく建前と本音を区別し、本音を隠すことをよしとする日本人の国民性が差別行為にもかなりの程度反映され、ほとんどの差別が心の中に「差別感情」としてしまい込まれ、それが明示的に表現されることは稀である。
そのため、日本的差別は、いわゆるヘイトスピーチのような形で露骨に差別感情を表出するのでなく、日常の何気ない言動の中にそれとなく内なる差別感情が滲み出る形になりやすい。いくらか積極的に表出されても、陰口のレベルにとどまる。あえて分類すれば、陰性の差別行為である。
しかし、このような陰性差別行為は、被差別者にとっては独特の重苦しさをもたらすものである。この点について、ある被差別者は「摩滅感」という言葉で表現している。別の論者がそれを巧みに敷衍したところを引用すれば、次のようなことになる。
日常的な小さな、しかし日常生活をおくっていくためには絶対必要な事柄の中で、人に言うのも少しためらわれるような差別、いちいち取り上げていったら愚痴だけを言い続けていなければならないからと黙っている、そういう差別が積み重なっていく。我慢する努力だけでスリ減ってしまう。これが「摩滅感」というものだろうと思います。(藤田省三『現代日本の精神』より)
「摩滅感」という語は民族差別の被差別者の言葉であるが、これは一丁目一番地の容姿差別においてよく当てはまる。筆者自身も、被差別者として、蔑視や陰口など「いちいち取り上げていったら愚痴だけを言い続けていなければならないからと黙っている、そういう差別」を受け続け、「摩滅感」を味わい続けてきた。
上記引用部分の著者は、こう続ける。「そういうことに毎日必ず一つや二つ出くわすことが人格にとってどんなに屈辱的なことであるか、日本人は知らなくてはいけない、知る義務がある」。
もっとも、近年、日本的な差別にもある変化が見られるようである。特定少数民族排斥デモのような露骨に差別感情を表出する陽性の差別行為が発現しているのである。日本では従来ほとんど関心を持たれてこなかった「ヘイトスピーチ」という語が急速に定着し、規制法制定の動きもあるのは、そうした差別の形態変化を反映している。
このような変化の背後で、建前と本音の使い分けという日本人の国民性が本音を剥き出す攻撃的な国民性に転換されつつあるのかどうかは、断定できないが、少なくとも、差別克服とは真逆方向の差別助長的な流れが起きていることはたしかである。
この流れがもし定着してしまえば、日本社会には陰陽二種の差別型が出揃うという大変な事態になる。といって、ヘイトスピーチ規制で陽性差別行為を抑圧すればめでたしではなく、それが副反応的に陰性差別行為を強める危険もあることに、留意が必要である。
最後に、上掲引用文の後に続く箇所を引用して、結びとしよう。「日本で(が)民主主義というのだったら、まず、日本の中の少数者を、日常生活の中でひき臼にかけているんだ、ということの反省から始めなければならない」。