差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

動物差別について

以前、差別最終街区の四丁目二番地・犯罪者差別の隣は動物差別であると述べた。実際、凶悪犯罪者は「鬼畜」と評されることすらあることからも、このことは裏付けられる。動物差別とは、人間以外の動物を劣等視することである。
人間はかねて高等知能を有する霊長類を自称してきたため、人間以外の動物は遺伝子構造的に近縁な種でさえも、仲間の人類というよりは一段以上低い類人猿とみなしてきた。少なくとも、動物を人間と完全に同等とみなす社会思想は見当たらない。
しかし、動物差別は、人間にとって有用な動物を単なる食用を越えた営利的な目的から狩猟の対象としたり、有用でない動物については開発により生息域を剥奪するなどの方法で絶滅に追いやり、生物多様性を喪失させる要因となってきた。
人為的な要因で多数の動物が絶滅し、または絶滅危機に陥った今、ようやく生物多様性の回復・維持は国際関心事となってきたが、人間の活動が生物多様性に優位するという思想はなお根強い。それほどに、人間の動物差別思想は根深いのだ。
もちろん動物好きな人間も多いが、その場合にあっても、圧倒的に選好対象となるのは人間と同じ哺乳類であり、爬虫類や昆虫などは嫌悪されることが多い。このように動物の部門によって好悪が分かれるのも一種の差別であり、哺乳類に優位性を見るなら、それは人間優越主義にも連なる哺乳類優越主義と言うべきある種の優生思想である。
ちなみに、蛇のような爬虫類、ゴキブリのような昆虫が嫌悪されるのは、その毒性とか汚染性といった客観的な特性のゆえのみならず、やはり「見た目」の不快さという点が大きいと思われる。これは、まさに容姿の外見で人間を差別する容姿差別と同様の価値観に基づいている。その証拠に、同じ爬虫類でも亀は愛され、昆虫でもカブトムシや蝶は愛されるというように、「容姿」の良い/可愛い種は差別されないのである。
動物差別を克服することはできるのだろうか。人間同士の差別をさえ克服できない人類に動物差別の克服は期待薄かもしれない。だが、人間差別と動物差別は境界を接していることを思えば、両者を切り離すことはできない。
まずは動物差別の根底にある人間優越主義を撤回してみよう。人間はすべての点において他の動物に優越するわけではない。運動能力に関しても人間がはるか及ばない技能を持つ動物はいくらもいる。特に人間はその五感に関してはほとんど落第動物と言ってよい。ただ視覚だけは細かな色彩の識別を含め比較的よく効くため、視覚的なイメージに依存しやすいことが、差別行為にもつながるのであった。
そうした知能的進化の反面としての運動的・感覚的な退化をより鮮明に自覚することが、人間優越主義の克服の道であり、生物多様性を単なる「環境保護対策」にとどまらない根源的な次元で再認識する契機ともなるだろう。