差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

「差別学習」の第一歩

誕生してから乳幼児の間はまだ差別するということを知らない人類が差別行為の第一歩を踏み出すのは何歳頃でしょうか。そうした観点からの本格的な研究自体があまり行なわれていないため断言はできませんが、自身の経験を加味した推定によれば、おおむね7~8歳頃には早くも差別行為の芽が生じるように思われます。

その点、ピアジェ発達理論によれば、人間は2歳頃から思考操作の前段階(「前操作段階」)に入り、7歳頃から簡単な思考操作が実際に可能になるとされます。ピアジェは特に7歳から11歳までを「具体的操作段階」と名づけていますが、これは日本の学齢ではほぼ小学生段階にあてはまります。

この段階の子どもは簡単な論理的思考が可能となり、物事の順序といったものが理解できるようになるといいます。ただし、抽象的思考はまだできず、具体的な事物に関する思考操作にとどまります。ですから、例えば「人種」といった概念はよく理解できませんが、人間を肌の色その他の外見によって区別することはできます。

この段階の子どもは数や量の概念も理解できますが、価値はどうでしょうか。例えば、人間を外見によって優劣評価することはできるでしょうか。価値という判断規準は抽象的であり、「具体的」操作段階では価値評価のような抽象的思考操作はよくできないとも考えられます。

ただ、ピアジェの「具体的操作段階」は7歳から11歳とかなり幅のある年齢層をカバーしています。最終の11歳と言えば、早い子ならもう思春期にさしかかる年齢で、その頃になれば一定以上の抽象的思考もできるようになりますから、「具体的操作段階」の終盤では価値の概念も理解できるようになるでしょう。

とはいえ、差別的な観念を子どもが一人で自然に体得するということは考えられません。そうした観念は外部から注入されてはじめて体得されます。このようなプロセスはピアジェ理論ではうまく説明できません。その点、人間の認知機能の発達には社会的・文化的な関わりが重要であることを提唱したヴィゴツキーの発達理論が参照されます。

差別行為の前提となる価値規準―例えば人種/民族や容姿等の優劣―は、各人が生まれ育った社会の文化的規準によって、さらには両親など周囲の大人の価値観によっても規定されており、それが「具体的操作段階」を迎えた子どもに注入されると考えられます。

その際、言語という媒介物が不可欠です。差別行為の出発点は差別意識言語化し、表出することにあるからです。つまり差別行為は、両親をはじめとする大人から大人が常用する差別語や差別表現などの言葉を通じて大人の差別意識が子どもに内部化されることによって初めて発現するのです。

一方、ヴィゴツキーは、子どもたちが子ども集団の中での相互模倣を通じて自力で学ぶ力能についても指摘しています。つまり、子どもは大人から学ぶのみならず、自分たちで学ぶ力能を備えています。こうした自主的学習能力は良いことにも悪いことにも働きますから、差別のような悪質行為についても子どもたちは集団内での相互模倣により身につけていくのです。

義務教育の制度が定着した先進社会では、7歳から11歳の子どもは例外なく学校に通い、そこで毎日集団生活をします。そうした学校こそが、最初の差別行為の学習場として機能してしまうのです。言わば「差別の小学校」です。具体的には、外見上劣等的とみなされる弁別特徴を持つ同級生への集団的ないじめとして発現してくるでしょう。

このように、7歳から11歳の段階で差別行為の第一歩が踏み出されるとすれば、反差別教育もこの段階で対抗的に開始しなければ手遅れになるでしょう。差別行為の習慣が身につき、免疫が形成されてしまってからそれを除去しようとしても、除去への抵抗心理が強く働いてしまうからです。

ピアジェ発達理論によれば、12歳以降は「形式的操作段階」に入り、価値のような抽象的概念を高度に理解できるようになっていきますから、差別行為をより意識的・思想的に実践することも可能となります。この段階で初めて反差別教育を導入しても、反差別教育への反発という反動が生じ、教育が成立しなくなるおそれがあります。

ところで、ピアジェは「具体的操作段階」の重要な発達点として、自分自身を他者の立場において考えることが可能になることも指摘しています。つまり、常に自己中心的な思考しかできなかった「前操作段階」を脱し(脱中心化)、「自分が彼/彼女であったら・・・・」という簡単な自他置換思考が理解できるようになるのです。

これは反差別教育を考えるうえで有益な手がかりとなります。筆者が推奨する反差別実践訓のうち、「引き寄せの倫理」は、自分自身を差別される他人に置き換え、自分自身が差別される立場であったらどうか、と我が身に引き寄せて自問することだったからです。

ただ、このような「引き寄せの倫理」は差別を我が身に受け、苦痛を感じることを想像の中で追体験するというプロセスを経るため、反差別実践訓の中では実践が難しいものでもあります。そのため、記事では「究極の反差別実践訓」としてご紹介したのでした。

しかし、実践が難しいのはすでに自我が確立されてしまった大人の想像力というものに限界があるからであって、自我が未発達な子どもは大人以上に自他置換の想像力に富んでいて、自分以外の誰かになりきりやすいとすれば、「引き寄せの倫理」は小学生の子どもへの反差別教育のメソッドとして有効なものかもしれません。