差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

日本社会と差別(中)

前回は、日本社会において差別克服が困難な課題となる理由として、差別が高度の社会的安定の秘訣として利用されていることを、特に移民制限と精神障碍者隔離という典型的な二つの事例を挙げつつ、指摘した。しかし、日本社会で差別克服が困難となる理由は、他にもある。今回は、より根源的な文化的理由を考えてみよう。

差別の根源が「見た目」に対する劣等視にあることは、差別の一丁目一番地が容姿差別に始まることからしても、世界共通法則である。これは、人間が専ら視覚から情報を取得する生物であるという類的な共通性に由来するが、そればかりでなく、「見た目」に対する文化的な選好によっても左右される。

この点、日本社会では「見た目」に対する文化的なこだわりの強さが窺える。日本の伝統芸術・芸能では、全般に形や所作の優美さを追求する傾向が強い。こうした形式美を追求する文化―ここでは、形式文化と呼ぶ―は、産業面にも流れ込み、工業製品や農産品においても、形の悪いものはそれだけで欠陥商品として出荷できないという商習慣が根強い。

形式美の追求は、そうした物の世界における評価だけにとどまらず、人の評価にも反映されやすい。容姿差別に関連しても述べたように、日本社会で日々実践されている美男美女への過剰な称賛とその真逆者に対する軽蔑は、人物評価面における形式美へのこだわりの強さを示すものである。

そのために、日本社会では容姿差別という差別の一丁目一番地が、そもそも「差別」として認識されず、容姿劣悪者は人間としてマイナス評価されてもやむを得ない―「見た目」の第一印象がすべて―といった開き直りの論理が支配することになりやすいのである。

このような形式偏重の文化慣習は、差別を克服するに当たっては高い壁となる。差別克服の第一歩は、「全盲の倫理」でも指摘したように、まず「見た目」優先の評価基準を放棄する練習から始まるからである。日本人の場合、このような価値観の転換に強い生理的な抵抗をすら感じることになりがちなのである。

これに対して、形式より内容を重視する文化―ここでは、実質文化と呼ぶ―の社会―いちがいには言えないが、西欧社会はそれに当たる―では、「全盲の倫理」のような価値観を受容しやすいので、少なくとも政策的に反差別法のような差別克服策を導入することに対する抵抗感は少ない(法が実効的に運用されるかどうかは別問題として)。

日本では、反差別法のような政策が提起されても、「表現の自由を侵害する」等の法的な反論が提出され、立法化を阻止されやすい。この反論の裏には、差別行為を「表現の自由」として確保したいとの欲求が隠されている。こう言ってよければ、日本人(主流派)にとって、差別行為は「見た目」重視の文化価値を表出する文化的実践なのである。

とすると、日本社会が差別克服に本気で取り組むには伝統の形式文化を実質文化に転換しなければならないのだろうか。否。形式文化を、狭く芸術・芸能分野に限局することで必要にして十分である。少なくとも、人物評価に当たっては形式文化を適用しないということを意識的に実践するのである。(つづく