差別問題を街区にたとえて、一丁目から四丁目まで見て一巡したところで、今回から日本社会における差別問題の特殊性について、考えていきたい。残念ながら、日本は差別に対して感度の低い国であり、包括的な反差別法の制定もめどが立たない状況である。差別事象や克服法に関する研究活動も極めて不活発である。それは何故だろうか。
答えはいろいろあり得るだろうが、最も本質に迫るのは、日本社会は、差別を通して高度な社会的安定性を保持しているという定常社会論であると考えられる。言い換えれば、日本社会の世界に稀なる高度の安定性は、あえて差別を野放しにすることによって、成り立っているということである。
実のところ、差別が克服されるということは、従来社会の周縁部に押し込められていた多種多様な人々が一斉に中心部にカミングアウトしてくることを意味している。それによって、従来は均質性が保たれていた社会中心部が渾沌化し、社会は不安定な構造になる。このことは、いわゆる多民族社会が実践されている諸国がしばしば民族間摩擦・紛争に悩まされることを想起すれば、わかりやすいであろう。
差別全般の克服は、諸民族にとどまらず、障碍者、性的少数者、外国人、犯罪者に至るまで、多種多様な属性者が社会に勢ぞろいすることを許すのだから、結果として社会的安定性はかなりの程度犠牲にされざるを得ない。
この問題が特に如実に表れるのは、移民/難民政策である。日本はこれまで移民/難民の受け入れに世界で最も消極的な国をもって知られ、そのことを悪びれることなく、標榜もしてきた。そのおかげで、民族間摩擦・紛争が社会問題化するほどの移民社会は形成されておらず、社会の均質性が高度に保たれてきた反面、過少な移民家族や少数民族は周縁化されてきた。
ただ、近年になって、特定分野での労働力不足や人口減少問題を背景に、移民受け入れ論が提起されるようになったが、移民制限政策の根本的な転換には依然として消極的なままであり、国民的合意もできていない。
もう一つ、より内政的な問題として、精神障碍者の処遇がある。従来、日本は世界的にも稀なる膨大な精神病院人口を抱えることで知られてきたが、これは一般社会で危険視される精神障碍者を病院へ隔離収容する政策―強制入院制度もある―を長年にわたり続けてきた結果である。
このことが国際的な批判を呼んだため、政府も重い腰を上げて、精神障碍者の社会復帰と入院病床削減を進めようとしてきたが、顕著な進展は見られない。これは、社会の側に精神障碍者と共存しようとする意思が乏しく、また政府自身も社会統制上、精神障碍者の大量社会復帰に不安を感じているからにほかならない。
かくして、移民/難民制限政策と精神障碍者隔離政策とは、日本社会の高度な安定性を保持するうえで、象徴的な二つの秘訣となっているのである。日本社会では、他の差別事象も、程度の差はあれ、社会的安定性を維持するための道具として活用されてきたと言ってよい。
となると、差別克服を真に国民的レベルで実践するためには、次のような一つの社会的な決断を要することになる。すなわち、社会的不安定を受容するか、それとも差別の中の社会的安定を続けるか。
現状、国民多数派は後者を選択したいのかもしれない。たしかに、不安定を積極的に望む国民はあまりいない。しかし、こうも考えてみよう。差別の中の社会的安定により自らに何か不利益が及んでいないか、と。
思いつかないという人が多いかもしれない。しかし、差別の中の社会的安定によって、自らもまた何らかの属性を理由に差別されているとしたら?否、私は差別される属性などいっさい持たない完璧な日本人であるので、問題ない?
今はたとえそうだとしても、被差別属性は、障碍のように、病気・負傷により新たに発生する場合もあるのだから、現状を固定的にとらえないほうがよいだろう。また、容姿や能力による差別のように、見えないところでこっそり差別されている場合もある。差別が野放しにされている社会とは、誰もが被差別者となり得る社会なのだ。(つづく)