差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

知能差別の克服

前回から差別の三丁目に立ち入っているが、ちょうどよく、政治家による差別発言のニュースが飛び込んできた。与党の幹事長某が街頭演説の中で、「バカだ、チョンだ」という発言をしたという。

ただ、この発言で専ら問題にされているのは、かつて朝鮮人への蔑称として使われていた(現在ではほぼ死語)「チョン」のほうで、「バカ」を問題視する見方はほとんどない。しかし、ここでは「バカ」が問題にされないことを「問題」としてみたい。それは差別の三丁目一番地の知能差別と関わってくるからである。

紛れもなく、「バカ」(馬鹿)は、知能が低いとみなされる人を馬や鹿にたとえて貶める差別語である。辞書によると、「馬鹿」は当て字で、本来は梵語で「無知」を意味するmohaの転写だというが、今日では当て字のほうが一般化している。

ただ、この言葉は「阿呆」とか「間抜け」といった類語と並んで、日常的にもしばしば使用されることから、明確に差別語であると意識されていないかもしれない。たしかに、相手に言い返す際の「馬鹿なことを言うな」といった表現は、必ずしも差別的とは言い切れず、文脈により相対化される差別語ではあろう。

ちなみに件の政治家発言は、他党が自党支部の政策を「バカだ、チョンだと言っているが」という反論的な文脈で語られたものであり、他党を馬鹿呼ばわりしたものではなかった。だからといって、適切だったことにはならないが、差別表現としては間接的だったとも言える。ただ、「チョン」という明白な差別語と組み合わされることで、差別的ニュアンスは強められている。

「馬鹿」が直接かつ明白に差別語となるのは、知的障碍者や学習障碍者等を「馬鹿」と指称する場合であるが、こうした場合ですら、明白に差別と認識されないことも多々あるのではないか。それほどに、知能による差別は日常化している。

実際、知能テストのように科学的に知能を査定する手段が用意され、また一定以上の知能を前提とした学力テストも定着しており、ほとんどの人がこうしたテストを一度は受けているはずである。そうして知能によって選別されていくことを多くの人が自然に受け入れている。

「頭が良い/悪い」という優生学的な表現も普通に使われ、成績良好者は「頭が良い」と賞賛される。逆に「頭が悪い」は「馬鹿」とほぼ同義で、成績不良者が自嘲的に「自分は頭が悪い」と卑下することもある。

こうなると、知能による差別を「問題」にするということ自体困難に思えてくるが、諦めるのは早い。そもそも知能などというものは、存在しないのである。それは知能テストのような手段によって検査されて初めてはじき出される一定の指数にすぎない。査定法によっては異なる結果が出るかもしれない。まして学力テストは「試験対策」の巧拙次第で、容易に結果が変わるものである。

もっとも、知能の概念が全く無意味というわけではない。知的障碍や学習障碍には原因となる何らかの脳疾患があり、それを早期に発見し、適切な療育をほどこすことで、知的成長を促進することも可能だが、そのための手段として知能テストを用いることは知能概念を差別でなく、差別解消に役立てる道である。

また、知能の外延的な概念でもある学力とは、特定の試験における成績の相対的な順位付けにすぎず、知能以上に観念性の強いものである。それはその時出題された限られた数の課題に対する即応性を査定した結果にすぎず、そういうものとして、選別ではなく、適性評価等の目安として用いることは可能であろう。

まとめれば、知能の概念を差別でなく、反対に差別解消に役立てる方向で生かすこと、それが知能差別を克服する道である。