差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

全盲の倫理

年末以来、約一か月ぶりの発信である。目下、当初の予想を超えたレベルの黙殺を受けている状況であるが、めげることなく、差別を克服するための方策を考えるという企画を続けていきたい。

以前、人間は五感の中でも視覚が比較的発達しているうえに、美醜という価値基準を持つことから、容姿差別が発生するということを指摘した。しかし、人間には視覚を持たない者もいる。全盲者である。

全盲とは文字どおり視覚を一切欠いている状態のことであり、全盲者は視覚障碍者の代表に位置づけられる。全盲者の認識方法は当然にも、有視覚者のそれとは大きく異なっている。

例えば、目の前に向かい合っている人の場合でも、その容姿を視覚的にとらえることができないので、容姿の美醜を判断することもできない。相手がどんな人物かは、会話してみて容姿不問で判断するほかないわけである。

従って、全盲者は容姿差別をしようにもできない。全盲者にとって、視覚的な美醜は想像と観念の世界でしかない。そのため、かれらは反差別をことさらに意識せずとも、自ずと容姿差別の加害者とはならない(被害者となることは、あり得る)。

有視覚者もこのように視覚的表象によることなく他人を判断する全盲者の態度に倣うことができる。ただ、有視覚者の場合は、いやでも相手が見えてしまう以上、容姿の美醜を判断せざるを得ないと言われるかもしれない。

たしかにそのとおりであるので、有視覚者の場合は、自身の認識方法を倫理的に制約する必要が出てくる。それで、「全盲の倫理」なのである。つまり、全盲になったつもりで、他人の容姿の美醜判断を棚上げにすることを自らに義務づけることである。

このようないささか現実離れした倫理の実践は、不慣れなうちは困難を感じるかもしれない。しかし、誰でも後天的に病気や傷害によって視覚を喪失することはあり得るという現実を考慮すれば、万一に備えた“予行演習”にもなるだろう。

このような「全盲の倫理」を万人が実践すれば、世界から容姿差別が一掃されること確実である。その意味でも、全盲者は有視覚者にとって模範たるべき鑑である。


[付記]
昨年、全盲者が連れ歩く盲導犬が何者かに酷く傷害されるという事件が報じられ、波紋を呼んだ。現時点では未解決であり、犯人の意図・動機は不明であるが、全盲者を鑑とするどころか、排斥するかのようなヘイトクライムとして強く非難されるべき犯罪行為である。上記のような「全盲の倫理」が普及すれば、このような犯罪も起きないはずである。
 
[追記]
上記盲導犬傷害事件は未解決のままで、そもそも「事件」は存在しなかったという説も流布されているようである。それはそうとして、日本社会は盲導犬を同伴しての飲食店等への入店を拒否されることが普通にある社会である。たとえ「傷害」事件が事実誤認等であったとしても、盲導犬に対する理解が深い社会と言えないことに変わりない。