当ブログは容姿差別という差別の一丁目一番地から入っていったが、予想どおり反応がない。それはブログ更新頻度の低さという筆者の非力のゆえもあろうが、容姿差別というものが見えにくく、実感を持てないということもあるに違いない。
たしかに、容姿差別は子どものいじめの形で表面に現れる場合は別として、成人の差別の場合、被差別者に気がつかれない陰口、あるいは就職採用に当たっての総合評価の中に紛れ込ませる形で行なわれることが非常に多いため、差別されているという実感が湧かない。
しかし、後者の就職に当たっての容姿差別は、生活にも直結するため、看過できないはずである。従来、採用での容姿差別は専ら女性に対するものと考えられてきた。歴史的には、女性職員を「職場の花」としか見ない男性の価値観で「花」にふさわしい女性を採用するという性差別の性質を持つ容姿差別が伏在してきた。
近年は女性の社会進出に伴い、男性職員の採否でも、女性の価値観による容姿の選別が行なわれている可能性は十分にあるし、特に対面サービス職では女性客を意識して男性でも容姿が採否の重要ポイントとされていることはほぼ確実であろう。
とはいえ、採否に当たって理由は開示されないため、容姿差別は表向き存在しないことになっているし、容姿を考慮したにしても総合評価の一要素に過ぎないという弁明がなされるであろう。そのため、法的に問題視することが難しい。まして、陰口レベルの差別となると、本人も気がつかない限り、問題化すらしない。
実は、反差別政策では世界最先端をいく欧州でも、容姿差別の認識は弱い。例えば、様々な理由による差別を包括的に禁止する反差別法としては最新の2010年英国平等法(Equality Act 2010)でも、九つに及ぶ差別事由の中に容姿(appearance)の項目は含まれていないのだ。
ただ、人間の容姿とは性的魅力に関わる特徴だとすれば、性(sex)による差別に含めることもできるが、容姿が個別の差別事由として意識されていないのは、一丁目一番地が抜けている地図に等しい。一丁目一番地が地図に載っていない―。
そのことに勇気を得て、美を追求する人間が他人を容姿で差別するのはやむを得ない、醜悪な容姿の者は蔑視・排除されて当然と開き直る人もいるかもしれない。だが、もしもその容姿の欠陥が障碍によるものだとしたらどうか。その場合は病気が原因だから、いたわるのか。だとしたら、なぜ障碍による欠陥と普通の欠陥を区別するのか。
こうした問題は、差別の一丁目二番地に関わってくることなので、改めて次回―次回とはいつなのか未定であるが―考えていくことにしよう。