差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

いじめと差別

いじめが教育上喫緊の課題となり、「いじめ防止対策推進法」なる対策法までできる時勢であるが、いじめの本質については教育関係者の間でも十分に認識されていないので、いじめかどうかをめぐって現場で認識の対立も起きやすい。
上記法律上も、「「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。」などと、わけのわからないお役所風“等々文”の定義が与えられている。
この定義の最大の問題点は、陰口のように相手が気がつかず、「当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じていない」場合は、いじめに該当しない点である。しかし、いじめの発端はまず陰口である。そこから、陰口では飽き足らなくなり、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じるような方法での嫌がらせや強要、暴行にエスカレートしていく。しかし、そのような段階まで進んでからいじめとして介入してももう手遅れなのである。
では、いじめとは何か。簡単に言えば、子どもの領分における差別のことである。そして、ここでも、容姿の醜悪さを「キモい」「クサい」などの差別表現で蔑視する容姿差別型のいじめが一丁目一番地であることは、成人の差別と同じである。
筆者の経験でも、小学校低学年ではほとんど経験しなかった容姿をめぐる陰口や嘲笑が高学年頃には小さな形で現れ出し、中学・高校と進むにつれ、確定していった。これは、ごく一般的な容姿差別の進行プロセスである。
このプロセスを発達段階的に分析すると、容姿に関する美醜基準がまだ体得されていない幼児期から小学校低学年では容姿をめぐるいじめ行為は発現しないのに対し、周囲の大人やテレビ番組等の影響により美醜基準を体得し始める高学年頃から徐々に容姿をめぐるいじめ行為が始まり、成人に準じた偏向的価値観が身につく思春期の中学以降になると、明白に容姿差別と言える行為に出るようになる。
実際のところ、いじめを代表格で主導的に実行するのは一部の児童生徒に限られ、大多数は傍観もしくは消極的加担にとどまるが、この傍観・消極的加担の原体験こそが、差別に関する感覚を麻痺させ、成人後に各種差別の加担者となる素地を作るのである。その意味で、学校は差別の練習場であって、将来成人後に加担するすべての差別の根源は学校にあると断じて憚らない。
このように、「いじめ=差別」という認識を教育者が持たないまま、小手先の「対策」に走っても、何ら根本的な解決にはならない。逆に「いじめ=差別」という認識のもとに、反差別教育を小学校段階から徹底すれば、いじめも差別も激減させることが可能となる。
[お願い]
当記事を閲覧した教育関係者は、記事の趣旨をご理解のうえ、このような考え方を周囲に広げるよう努めていただければ、幸いである。