差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

ナチスとイケメン

今年はアウシュヴィッツ解放70周年の節目ということで、内外で改めてナチスへの関心が高まっている。そこで、本講座でも、差別の一丁目に関するまとめを兼ねて、このテーマを取りあげてみることにするが、それにしても奇妙過ぎるタイトルになった。
なぜ、あえてこのような奇抜なタイトルにしたかと言うと、アウシュヴィッツに象徴されるナチスの人種浄化政策や障碍者抹殺政策とは、まさしく差別の一丁目の究極を国家ぐるみで実行したものに他ならないと理解するからである。
差別の一丁目一番地は、繰り返し強調してきたように、容姿差別であった。「ナチスと容姿差別」というテーマは、ナチスの専門書においてもほとんど扱われていないが、ナチスの本質を現在進行的にとらえるうえで、是非とも意識しなければならないことである。
ナチスの差別政策の基軸となった人種理論とは、いわゆるアーリア人種優越説であった。つまり、ゲルマン系の北ヨーロッパ人―不正確に「北欧人種」とも呼ばれる―を人類の最上級とみなす似非科学的な“理論”である。
北ヨーロッパ人の形質的特徴は、金髪・碧眼・長身で彫りの深い顔、要するに典型的なコーカソイド人種である。ナチス党員は必ずしも全員がこのようなアーリア人種で構成されていたわけではなかったが、ナチス内部でもエリートの親衛隊の入隊条件としては、このような形質的条件の厳格な審査が課せられていた。
もっとも、この条件では容姿の優劣は必ずしも明示されていないが、「(親衛隊員は)、女どもを惚れさせるよう際立った存在でなくてはならない」というヒトラーの指示からしても、“イケメン”が優先されたことはほぼ間違いない。
ナチスの人種理論にも、そうした容姿差別が含まれていたのだ。大きくとらえれば、かれらの言うアーリア人種こそ、最も“恰好いい”人間だと認識されていたのである。その意味では、もったいぶった似非学問的な言葉で語られた人種理論も、化けの皮を剥がせば、“イケメン”探しと変わらない浮薄な心性をベースにしていたのである。
ナチス犯罪に関しては、その規模の大きさからユダヤ人虐殺ばかりがクローズアップされるが、ナチスが劣等視したのは、ユダヤ人に限らず、「アーリア人」の特徴から外れた“ブサイク”人間全般だった。
重要なのは、ここからである。そうであれば、ナチス的発想は、現代人も大いに共有しているということになる。例えば、日本のCMにはよく外国人モデルが起用されるが、その大半はまさにナチス理論でいうところの「アーリア人種」の美男美女である。おそらく、「アーリア系」美男美女を人類の最上級種とみなす発想は今なお世界的に優勢であって、ヨーロッパはもちろん、アジアでも共有されている(アフリカではどうか)。
中でも、“イケメン”などというまさに人間の容貌の形質的な特徴だけに着目した露骨な俗語がはびこり、日常の場で“見た目”偏重の親衛隊的“審査”が行われている現代日本の状況は、ある意味、すでにナチス的と言ってよい。
このような言い草を大袈裟だと一蹴してほしくない。しばしば誤解されるように、ナチス犯罪は決して単なる戦争犯罪ではないし、ドイツの一部狂信家集団が犯した犯罪的逸脱でもなく、人間をおよそ持って生まれた形質的条件で優劣を付けて差別する発想の拡大版だったのであり、その基本思想はまさに今日この日も明確に意識されないまま、世界中に遍在している。
もしも今、仮に政府が「醜悪な容姿の人間を摘発し、すべて強制収容所に送り、抹殺する」という“人類浄化法”の制定を企てたとして、いったい何人の人が体を張ってでも強硬に反対するかを考えてみると、真に心もとない(筆者などは、真っ先に抹殺される運命・・・)。
差別の一丁目には、容姿差別・障害者差別・人種差別の三つの番地が含まれると以前述べたが、この区画に含まれる差別はいずれも人間が生まれながらに備えた変更不能な属性による差別である。
人間を生まれながらに備えた属性をもって差別するのは、ナチス的な反人道犯罪と全く本質を同じくする━。このような強い認識を持つ必要がある。ナチス犯罪やその類似犯罪を二度と繰り返さないためにも。