差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

整形/美容は必要?

前回、差別の根底にあるのは劣等感だと指摘した。よって、劣等感を持つ被差別者自身が加害者と化す差別の連鎖という現象が生じるのだった。その連鎖を抜け出すために劣等感を解消する方法はないだろうか。
容姿の劣等感を解消するための方策としては、整形手術がある。より広くはお洒落を含む美容であり、まさに美容整形という用語も使われる。だから容姿差別など叫んでおらずに、差別されぬように整形すればいいではないかというような“現実論”もあるかもしれない。
これは容姿の美醜による差別があることは当然という前提に立って、差別する側でなく、される側の努力で克服すべきだという差別者側に立った開き直りの論だ・・・と言いたいところであるが、そうでもないようだ。実際、容姿の劣等感を解消するために被差別者自身が整形するということはしばしば見られることである。
一般的に、「差別される側(いじめなら、いじめられる側)が差別解消の努力をしろ」という差別の責任転嫁論はあらゆる差別現象において見られる差別の正当化論なのだが、容姿差別の場合はそうした「努力」の甲斐もあり、被差別者自身が率先して「努力」することも珍しくないわけである。
しかし、自らの容姿を自ら蔑視し、整形するということが本当に差別解消につながるのだろうか。整形の事実をネタに二次的な中傷、差別が発生することも考えられる。また首尾よく整形に成功して、生まれ変わった気分になり、他人の容姿をことさらに蔑視するようになれば、完全に差別の加害者と化す。
整形するな、と言いたいのではない。例えば、顔面の大きな痣とか瘤といった皮膚の病変的な箇所を修復するための整形であれば美容というより医療(形成外科)であり、医学的に必要な場合もあろう。
しかし、医学的には不要で、純粋に審美的な意味だけの整形手術を無条件に肯定することは、まさに容姿差別を正当化するに等しく、看過できない。
より広く美容に執着することも同様である。接客サービスや芸能関係など職業上美容が求められる場合はやむを得ないかもしれないが、そうした仕事に就いていない人が美容に走る理由は、劣等感以外にない。
ただ、特に芸能関係者が美容の模範を示す―生来の美も含めて―ことで、一般大衆の美容欲を搔き立てている面は確実にある。そういう意味では、芸能人という「人間カタログ」を売り出す芸能資本主義の経済構造も容姿差別を支えているのである。
繰り返すが、反整形を叫ぶつもりはない。しかし、整形/美容という営為の絶対的な必然性については反省が必要である。そして、己の劣等感と正面から向き合ってみよう。