差別克服講座

様々な個人的または集団的属性を理由とする差別を克服するための日常的な努力の方法について考えるブログ

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第52回)

レッスン11:犯歴差別(続き)

 

例題3:
新聞やテレビの犯罪報道で、犯罪の被疑者や被告人の実名が顔写真や映像とともに公開される慣行(実名報道)を廃し、匿名を原則(匿名報道)とすべきだと思いますか。

 

(1)思う
(2)思わない


 日本に限らず、世界的な報道慣行として広く見られる「実名報道」に対しては、従来から一部批判も向けられてきましたが、それはもっぱらプライバシーや無罪推定原則の観点からなされています。
 実名報道は、被疑者・被告人の個人情報である氏名・顔写真・映像、場合により家族関係まで暴露したうえ、犯人視することを典型的な内容とするので、市民としてのプライバシーや無罪推定を受ける権利を侵害していることはたしかです。
 そうした点を考慮して、日本の報道界ではかつての呼び捨て習慣を改め、「容疑者」「被告(人)」呼称を定着させたり、顔写真の公開を抑制するなど、一定の改善策も示してきましたが、そこまでで止まっており、実名報道そのものの廃止には断固として否定的であるようです。
 
 それほどに実名報道固執する理由を究明していくと、被疑者・被告人=犯人(犯罪者)という暗黙の前提に立ちつつ、その者を「さらす」という社会的制裁の形をとった一つの犯歴差別の慣習―逮捕・起訴されただけで犯歴とみなす早まった犯歴差別―に行き着くでしょう。
 これに対して、実名報道を固守する報道界からは、しばしば「実名報道は権力に対する監視手段である」といった正当化理由が持ち出されることがあります。
 しかし、「権力監視」を言うならば、権力行使の客体となる被疑者・被告人をではなく、権力行使の主体となる警察官や検察官、裁判官ら官憲側の実名(少なくとも各々の主任官の実名)を公表しなければ意味がない―こちらは、むしろ「匿名報道」が確立されている―ので、こうした理由を持ち出して「さらし」を正当化するのは、一種の転嫁的差別です。
 
 もっとも、一般社会で実名報道がどの程度支持されているのかよくわからないのですが、「ツラを見てやりたい」といった慣用句に象徴されるような「さらし」への欲求は相当に潜在しているのではないでしょうか。
 そのことは、少年法上匿名報道が要求されているため、実名報道の例外となっている少年の被疑者の実名や顔写真までがしばしばインターネット上に流出するという事態に表れています。
 
 こうした「さらし」は犯歴差別の一環とも言えますが、実名報道(あるいは報道を介さない「流出」)の対象は、法的な処分が確定する前の被疑者・被告人や少年に向けられることが圧倒的に多いです。
 そうであれば、やはり無罪推定原則が妥当するのであって―たとえ「自白した」という当局発表があっても同様―、「未決の被疑者・被告人、少年はまだ犯人と決まったわけではない」という鉄則を明確に意識することが、「さらし」欲求の抑制、ひいては匿名報道の確立にもつながる道となります。
 
 原則的な「匿名報道」―高位公職者や社会的地位を持つ公人、著名人などは例外―は、必ずしも犯歴差別そのものの解消を意味しないとしても、一つの差別回避策として、犯歴差別解消への重要な一里塚になるでしょう。

 

例題4:
あなたは死刑制度に賛成しますか。

 

(1)賛成する
(2)賛成しない


 死刑制度を差別問題に絡めることをいぶかる向きもありましょう。普通、死刑制度への賛否は「正義」の理解の仕方の問題としてとらえられているからです。そういう大きな問題として取り扱うと、死刑の存廃は水かけ論争に終わりがちですが、視座を変えてみると、少し違ってきます。
 
 そもそも、死刑とは犯罪者の存在価値を否定し、「生きるに値しない」と断罪する刑罰です。しばしば死刑判決文でも、被告人を「鬼畜」などと非難し、人間としての属性をさえ否定したうえで死を宣告するのは、そのことの端的な表れにほかなりません。その意味で、死刑とは、犯罪者を劣等視し、単に社会的に排斥するにとどまらず、地上から抹殺する究極の差別制度だとも言えます。
 このようにとらえるならば、死刑を「正義」とみなして正当化するのは、これまでに見てきた他の事例と同様、一見もっともらしい理由を持ち出す転嫁的差別の一例と言えます。究極の差別であるがゆえに、転嫁的理由づけとしても「正義」のようなビッグワードによりかかることになります。
 
 死刑制度が究極の差別であるということは、この制度が差別問題全般に対するリトマス試験紙となり得ることを意味しています。死刑制度への賛否にも濃淡がありましょうが、犯罪者の生きる資格を否定するこの制度を強く肯定する人ほど、本連載で取り上げた他の事例でも、差別的な回答をする確率の高い人だと見てほぼ間違いありません(逆もまた真なり)。
 その点で、人間を「生きるに値するかどうか」という基準で選別し、少数民族障碍者、同性愛者等々「生きるに値しない」と断じられた人々の絶滅政策にまで暴走したナチスが、同時に死刑制度を称揚して死刑の適用を大幅に拡大・強化し、大量死刑政策を展開したことは決して偶然ではありません。
 
 一方、〈反差別〉の実践に正面から真摯に取り組む政府を持つ諸国では、死刑制度は自ずと廃止へ向かうでしょう。〈反差別〉の実践は死刑制度の廃止にとって有利な環境を準備するであろうからです。そして、死刑制度の廃止は、犯罪を犯した人にも例外なく更生のチャンスを保障する包容政策を導き、犯歴差別全般の解消をも後押しするでしょう。

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第51回)

レッスン11:犯歴差別

レッスン11では、差別の四丁目二番地に当たる犯歴差別(犯罪者差別)に関する練習をします。

 

例題1:
[a]あなたの家の近所に、国が管理運営する重罪犯専用の刑務所の建設が予定されているとして、建設反対の署名運動を始めた近所の知人から署名を求められたら、あなたは署名しますか。

 

(1)署名する
(2)署名しない


[b][a]の事例を変えて、建設が予定されているのが刑務所を出所したばかりの重罪犯の更生を図る民間の施設であったらどうですか。

 

(1)署名する
(2)署名しない


 犯歴差別という現象は、犯歴情報が一般公開されることが原則としてないため、犯歴を持つ個人を直接に排斥するよりも、本例題のように、刑務所のような施設をいわゆる「迷惑施設」に見立てて、その建設反対を訴えるというような形で発現してきやすいものです。
 おそらく、[a]と[b]いずれの場合でも、反対署名をするという人が少なくないと推測されます。その理由としては、漠然とした「不安」のほか、「子どもへの悪影響」などが挙がってくるでしょう。
 
 しかし、[a]の場合は国が管理運営する正式の重罪犯専用刑務所ということで、受刑者は身柄を厳重に拘束された状態にあります。しかも、日本の刑務所では脱獄事件もほとんど起きないため、受刑者が近隣住民と直接に接触するようなことはまず考えられません。従って、「不安」等の理由は当たらないでしょう。
 
 これに対して、[b]の事例は刑務所を出所したばかりの人の更生を図る民間の施設ということで、入所者は身柄を拘束されておらず、何らかの制約はあるとしても、出入りは自由と考えられるので、「不安」等の理由も理解できなくありません。特に、例題では出所したばかりの重罪犯の更生を図る施設というだけに、再犯の危険性を懸念する意見が噴出するでしょう。
 
 しかし、再犯の危険性をゼロにすることはできないので、再犯の危険性がゼロでない限り重罪犯は刑務所に閉じ込めておくべしということになると、これは厄介者は施設へという隔離政策の一例となります。しかし、隔離政策はどのような場合でも真の問題解決とはなりません。
 社会内で生活しながら再犯の危険を除去するためには、刑務所を出所したばかりの人がどこかに紛れ込んで姿を消してしまうよりも、一定の場所で指導を受けながら暮らすほうが効果的で、かえって社会の安全を高めるとさえ言えます。
 
 なお、[a][b]いずれの場合でも、何はともあれ近所に犯歴者を集めた施設がやって来るということ自体を感情的に不快とする意見もあるかもしれませんが、それこそ典型的な犯歴者蔑視の差別となります。

 

例題2:
[a]未成年者に対する性犯罪の前科のある住民の住所・氏名を近隣の住民に開示して注意を呼びかけるという内容の法案ないし条例案が提出されたとして、あなたはこの提案を支持しますか。

 

(1)支持する
(2)支持しない


 [b][a]の事例を変えて、未成年者に対する性犯罪の前科のある者にGPS(全地球測位システム)による監視装置を装着し、警察が対象者の動静を常時監視するという内容の法案ないし条例案であったらどうですか。

 

(1)支持する
(2)支持しない


 犯歴を持つ個人を標的とする排斥的な事態が生じるとすれば、本例題のように国や地方自治体の具体的な施策を通じてということになるでしょう。
 一般的に住所・氏名のような居住情報は重要な個人情報になるはずですが、[a]では性犯罪の前科のある住民については、居住情報を近隣に開示することによって、その前科者を近隣住民が警戒し、避けるように仕向けるという制度です。
 
 一見乱暴な策のように見えますが、どこに性犯罪の犯歴者が居住しているか一目瞭然となり、該当人物を避けることができるので、「安心・安全」を高めると考えて、支持する人も少なくないのではないでしょうか。
 この法案ないし条例案はまさにそうした視点からのものであって、性犯罪の犯歴者を差別=劣等視するのではなく、危険視するものにすぎないという理解もあり得ましょう。
 
 しかし、このような制度は性犯罪の犯歴者を半ばさらし者にして、地域で孤立させるに等しいものであり、場合によっては近隣住民による転居要求などの具体的な排斥行動を誘発する恐れもあります。その意味では、犯歴者排斥の制度化と言ってもよいものです。
 その点に着目すれば、こうした制度には犯歴者に対する単なる危険視を超えた差別=劣等視が多分に内包されていると評価せざるを得ないように思われます。
 
 そこで、性犯罪の犯歴者の居住情報の開示範囲を地域の学校関係者や未成年者の保護者などに限定するといった限定開示策なら差別的とは言えないのではないかという考え方もあり得ます。
 しかし、この場合も、開示された情報が学校関係者や保護者らを通じて近隣に伝播していく可能性は否定し切れず、結果として近隣に広く開示するのと変わらないでしょう。
 
 こうした「さらし」の結果としての犯歴者の社会的孤立化は、かえって更生の妨げとなり、(近隣以外の場所での)再犯の危険性を高めるということからしても、[a]のような制度は逆効果的な失策であると言えます。
 
 これに対して、[b]のようなGPS監視であれば、犯歴者の居住情報を開示することなく、警察が対象者の動静を常時監視できるので、プライバシーの侵害も限定的で、かつ対象者の動静を広範囲に把握できるメリットも認められます。 
 たしかに、この方法であれば[a]のような「さらし」によって生じる犯歴者の社会的孤立を避けられる可能性はあります。しかし、GPS装着の事実が近隣に露見しないという確かな保証はありません。
 また、そもそも生身の人間に常時監視装置を装着するという一種の動物的な扱い自体が、犯歴者を劣等視する差別と言わざるを得ないのではないかという問題もあります。
 
 効果がありそうだからと飛びつく前に、他により差別的でない再犯防止策を研究してみるべきではないでしょうか。どのような策があり得るかということは、犯歴者更生の問題に関わり、本連載の主題を外れるので、各自の宿題とします。

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第50回)

レッスン10:国籍差別

〔まとめと補足〕

 本レッスンは旧版では「外国人差別」という表題を掲げていましたが、実は「外国人」という用語は現在では死語となっている“異人”ほどではないにせよ、「余所者」というニュアンスがにじみ出た用語ですので、表題に掲げることは避け、その実質に即して、「国籍差別」と言い換えました。
 それに合わせ、「外国人」という用語も「外国籍者」と言い換えたほうがよいと思われますが、いささか行政用語のようであるため、本文では「外国人」という人口に膾炙した用語を使用し、妥協しています。

 
 もっとも、どう表記しようと、外国人あるいは外国籍者に対する差別の根源は「余所者」排斥にあります。「余所者」とは、およそ人間の共同体にとっては潜在的な敵であり、警戒しなければならない相手です。
 そして、この「余所者」排斥もまた、その外見・風采が異形であるという視覚的な表象に深く関わっているのですが、「余所者」を排斥するのは、およそすべての共同体的組織に共通する本質的な危険視であって、差別=劣等視とは微妙に異なります。
 
 こうした「余所者」排斥は、国民国家という「近代的」な政治共同体のレベルでも、国民と外国人の峻別という形で継承されています。
 国籍と国境という概念を確立した国民国家は、そうした概念を持たなかった時代には「まれびと」のような形で一定の歓待を受けることさえあった「余所者」を「外国人」としてかえって厳しく統制するようになったとさえ言えるでしょう。国民国家にとって、外国人は厳重に管理されるべき「余所者」、日本の古い差別語で言えば“異人”なのです。
 
 ただ、この場合も、外国人を必ずしも劣等視しているのではありませんから、国民国家が外国人よりも国民を優遇しようとする政策のすべてが直ちに差別に当たるというわけではありません。
 その点、国際連合人種差別撤廃条約も「締約国が公民と公民でない者との間に設ける区別、排除、制限又は優遇については、適用しない」と定め(1条2項)、人種差別と「公民でない者」、すなわち外国人に対する区別、排除等とを弁別しています。
 
 とはいえ、外国人を非公民化する政策は、そこから外国人一般を犯罪者と同視したりするような差別的観念を醸成する温床となることは否めません。
 特に日本社会では異人種・異民族が外国籍であることが圧倒的に多いため、人種/民族差別が外国人差別という形式の下に発現しやすいのです。そのため、外国人差別と人種/民族差別との境界線はあいまいであり、先の条約上の弁別も困難です。
 
 例えば、例題3に絡めて指摘した石原東京都知事(当時)の発話「三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返している」は、人種/民族差別か、外国人差別か、どちらなのでしょうか。
 当時、国連は「公職にある高官による人種差別的な発言」として懸念を表明しました。国連では、石原発話を実質的にとらえ、外国人犯罪問題に仮託した人種(民族)差別と認識したようです。
 しかし、石原氏側はあくまでも外国人犯罪という「治安問題」を提起したにすぎないとの認識を示し、それが「差別問題」に発展したのは、一部メディアが演説の主旨を歪曲したためだと非難しました。
 
 こうした応酬を見ると、日本社会では犯罪をはじめとする外国人問題が人種/民族差別を隠蔽するための転嫁的差別のロジックとしても機能していることがわかります。そうだとすると、外国人差別の克服は、日本社会ではなかなか意識されにくい人種/民族差別の克服にとっても有効性を持つと考えられます。
 
 ところが、この外国人差別の克服ということが必ずしも容易でなく、その究極的な方法はそもそも国民‐外国人の峻別を本質とする国民国家という法的枠組みを解体することしかありません。それはまさに革命であり、単なる〈反差別〉を超え出た政治理論上の大論点になりますから、ここで本連載の直接的な課題とすることはできません。
 しかし、国民国家の枠内でも、外国人包容政策を推進していくことは、国民国家を解体しないまでも、外国人差別克服の一里塚としての意味は持つでしょう

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第49回)

レッスン10:国籍差別(続き)

 

例題5:
外国人の永住許可や国籍取得の要件を緩和する改正法案が提起されたとして、あなたは支持しますか。

 

(1)支持する
(2)支持しない


 [a]の法案は、合法的に入国して日本に一定期間定住している外国人が永住許可や国籍をより簡単に取得して、日本社会の一員となることを容易にしようとする法案です。これは外国人を社会へ迎え入れ、事実上海外からの移民コミュニティーの存在を認めることにつながる包容政策の代表的なものと言えますが、実際に法案として提起されれば、かなりの論争を招くことは確実です。

 
 外国人の永住や帰化の要件は国によって大きく異なりますが、日本はいずれも厳しく、永住や帰化が難しい国とされています。ここで複雑極まる外国人関係法令の詳しい解説はできませんが、ごく簡単に最も原則的な要件を挙げると、次のようです。

 

〇永住許可の要件

10年以上在留していること(日本人の配偶者がいれば3年以上、日本への貢献が認められれば5年以上)
独立した生計を営むに足る資産または技能を有すること
その者の永住が日本国の利益に合致すること
身元保証人がいること(永住ビザの取得要件)


〇国籍取得の要件

引き続き5年以上日本に住所を有すること
18歳以上で、本国法(帰化前の母国の法令)によって行為能力を有すること
素行が善良であること
自己又は生計を一にする配偶者、その他の親族の資産又は技能によって生計を営むことができること
国籍を有さず、又は日本の国籍取得によって元の国籍を失うべきこと
日本国憲法施行の日以後において、日本国憲法又はその下に成立した政府を暴力で破壊することを企て、若しくは主張し、又はこれを企て、若しくは主張する政党その他の団体を結成し、若しくはこれに加入したことがないこと。

 
 ご覧のとおり、いずれもハードルが高く、かつ「国益合致」(永住)や「素行善良」(国籍)など、行政による裁量性の強い曖昧な要件も付加されており、日本が移民の存在に拒絶的であることは明白です。そこで、こうした要件を緩めて、もっと永住許可や国籍が容易に取得できるようにするというのが改正法案の趣旨です。

 
 どのように、またどの程度緩和するかは政策的な問題になりますが、例えば上掲の曖昧な要件を外すことは最小限度の緩和になるでしょう。より踏み込んだ緩和としては、10年以上(永住)、5年以上(国籍)という居住期間の原則的な要件を短縮することです。さらに、出身国との二重国籍を容認することは、より踏み込んだ緩和となります。

 

例題6:
[a]「永住外国人には国政選挙における選挙権(投票権)を保障する」という趣旨の法案が提起されたとして、あなたは支持しますか。

 

(1)支持する
(2)支持しない

 

[b]「一定期間国内に居住している外国人に対しては、その居住地の地方自治体の選挙権(投票権)を保障する」という趣旨の法案については、どうですか。

 

(1)支持する
(2)支持しない 


 本例題が問題とする外国人への参政権の保障は理屈として困難な点がより多いです。主権は国民にあるという国民主権の公理からすれば、国民が国政選挙の選挙権を有することは民主国家の基本とされますが、外国人が国政選挙の選挙権を持たないことは自明とされてきたのです。
 そのため、国政レベルの参政権は国籍保持者に限定されるという考えがなお世界的にも根強い一方、地方参政権については一定の居住要件を満たす外国人にも保障する国がかなり出てきています。 
 
 ただ、税金に関しては、国も自治体も国民と外国人を区別せずに徴収しているわけで、「取るものは取るが、与えるものは与えない」というのは虫が良すぎるとも言えます。
 税金は国民か外国人かを問わず“平等に”徴収するというならば、税金の使い道を正すための選挙権(投票権)についても外国人、とりわけ社会の一員として定着している永住外国人には平等に保障するのが本筋ではないでしょうか。代表なくして課税なし。これは議会制度の歴史的な原点でもあったはずだからです。
 
 とはいえ、[a]のような国政レベルでは外交・安全保障も一応選挙の争点となり得る―実際にはほとんどなりませんが―ことからすると、たとえ永住者であっても、国政レベルの選挙権を外国人に保障することには否定的な国がなお圧倒的です(少数の例外として、ニュージーランドやチリなど)。これは、国民国家体制の超え難い限界と言えるでしょう。

 
 他方、[b]のように外交・安全保障がそもそも争点とならない地方レベルについては、少なくとも選挙権を一定期間居住する外国人に保障することに決定的な障害は認め難いと言えます。
 なお、被選挙権に関しては別途考慮の余地がありますが、少なくとも市町村議会の議員の被選挙権に関しては、一定期間居住する外国人にも拡大することに重大な障害はないと思われます。
 
 ただ、ここでも国籍で区別して、国交のない国の国籍保有者は除くという妥協策はあり得ますが、このように国籍の違いで参政権の有無を分けると、外国人参政権の内部に国籍による差別が持ち込まれます。それでは包容政策のはずの外国人参政権がかえって特定の外国人に対する排斥を助長する逆効果を持つことになり、真の包容政策とは言えません。

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第48回)

レッスン10:国籍差別(続き)

 

例題3:
テレビ番組のコメンテーターが、番組の中で「近年、外国人犯罪が急増している」と発言したとして、あなたはこの発言を信じますか。

 

(1)信じる
(2)信じない
(3)わからない


 外国人と聞いたときに「非外国人」である国民が思い浮かべがちなのは、「外国人犯罪」です。次のレッスン11で取り上げるように、「犯罪者」はほとんど体感的に差別・排斥されるカテゴリーであるため、外国人を事実上犯罪者と重ね合わせることで、外国人差別が助長されていきます。
 では、国民がどこでこうした差別的な観念を植え付けられるかと言えば、学校教育ではなく、マス・メディアの報道を通じてであると考えられます。
 

 今を遡ること20余年前の2000年4月、作家としても著名だった石原慎太郎氏が東京都知事の時、自衛隊の記念式典で、「今日の東京をみますと、不法入国した多くの三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している」云々と演説したことがありました。
 このような発話は厳しい批判を浴びると同時に、多くの賛同も寄せられたとのことで、一般大衆の間にある外国人差別意識の根強さを示す事例でもありました。この発話自体は一人の政治家の演説の中でなされたものでしたが、それがマス・メディア、さらにはインターネットを通じて拡散されることで浸透していきます。拡散されることで批判も受けますが、同時に賛同も広がってしまうのです。
 
 ところで、石原発話中、現代では聞き慣れない「三国人」とは終戦直後、日本の支配下から解放され独立した朝鮮や台湾の出身で、植民地解放に伴い、日本国籍を喪失したまま日本本土に残留し、実質的な移民となっていた人々を疎外的に呼んだ差別語ですが、今日では日常まず使用されない死語と化しています。
 当時の石原知事がそのような古めかしい差別語を20世紀最後の西暦2000年という節目の年にわざわざ復活させたうえ、「凶悪犯罪」と結びつけてみせたのは、日本の首都のトップによる朝鮮人や台湾人等への民族差別宣言と受け取られてもやむを得ないものであり、この点が特に強い批判の対象とされたのは当然と言えます。
 
 しかし、よく考えてみると、石原発話の本旨は「三国人」と並べて言われた「外国人」全般が「凶悪犯罪を繰り返している」として“常習凶悪犯罪者”(?)に仕立ててしまった点にあると思われます。
 これならば、例題のコメンテーターのコメント「近年、外国人犯罪が急増」という聞いたことのある言説の亜種となります。そして、石原発話に対する都民の賛同も、「三国人」の部分よりは、こちらの言説へこそ向けられていたのではないでしょうか。なぜ大衆が聞いたことがあるかと言えば、マス・メディアやインターネット上でそのようなコメントがしばしば流布されるばかりでなく、マス・メディアが外国人による犯罪事件を好んで取り上げること自体も大いに影響していると考えられます。
 
 こうした言説の特徴は、「近年」とか「急増」といった言葉で緊迫感を掻き立てるところにあります。しかも、根拠となるデータはほとんど示されません。そのため、かえって評論家、弁護士、ジャーナリストといったコメンテーターの肩書きの権威と相まって、ご託宣のようにある種の神秘的な説得力を持ってしまうのです。
 私たちがこうした言説の「神秘化」に乗せられないようにするには、データを示さない専門家の断定的コメントを無条件には信じないこと、そして自らも可能な限りで関係資料に当たってチェックする癖をつけることが最低限の注意則となります。そのうえに、データが示されていても、その出典データや出典そのものの信頼性や正確性、さらにコメンテーターのデータの読み方に誤りや歪みがないかどうかといった点までチェックできればなおよいでしょう。
 
 それでは、例題のコメント「近年、外国人犯罪が急増している」は果たして正しいのでしょうか。本連載は犯罪情勢を主題とするものではないので、検証は保留とします。ぜひ各自でお調べをいただければと思います。

 

例題4:
不法入国者でも一定期間国内で平穏に暮らしてきた者には合法的な滞在権を保障する」という趣旨の改正法案が提起されたとして、あなたはこの法案を支持しますか。

 

(1)支持する
(2)支持しない


 これは不法入国者に対する免責制度に関わる例題です。すなわち、入国時に密航などの違法行為があっても、その後の行状を考慮して問題なければ改めて合法的に滞在させようという制度です。

 とはいえ、正規の手続きによらない入国はすべての国で犯罪行為とされており、免責制度のようなものがなくとも、直ちに外国人差別だと断じられません。

 元来、近代の国民国家は国民と外国人とを峻別し、基本的な権利に関して国民を外国人よりも優遇する本質を持っています。従って、国民が自国に居住できることは自明の権利ですが、外国人が滞在できるのはあくまでも国の許可に基づくにすぎず、不法入国者には滞在権が存在しません。
 例題の不法入国者免責制度はそうした伝統的な考え方の大転換という意味を持っているため、支持しないとする回答が圧倒的多数を占めてもおかしくはないでしょう。
 
 とはいえ、不法入国した外国人夫妻が摘発され、日本で生まれ育ったため在留特別許可が出された子だけを残して本国へ送還されたという実例(2009年フィリピン人夫妻の事案)を知れば、判断に迷いが生じるのではないでしょうか。
 この夫妻は不法入国後は犯歴もなく日本社会に事実上定着していただけに、免責制度があれば―制度がなくとも、法務大臣の在留特別許可の権限は裁量性が強いので、事実上免責することもできた―、家族を引き裂くことなく、救済できたケースです(ただし、免責が認められる法的条件を厳しく設定するなら救済できない場合もあります)。
 
 免責制度を支持しない人はおそらく不法入国という犯罪行為をことさらに重く見るのでしょうが、これは入国の手続き違反であり、人を殺傷するような重大犯罪とは性質の違う形式的な犯罪です。
 合法的に入国しておいて重大犯罪を犯す外国人と、不法に入国した後は平穏に暮らしてきた外国人とどちらが社会にとって脅威であるかを実質的に考量してみましょう。そのような冷静な考量は、排外主義的な衝動を抑制するうえでも有効です。

 
 そうした意味からは、「不法入国者」とか「不法滞在者」といったいかにも排外的な用語もそれ自体として差別語とは言えないものの、こうした用語を乱発することは外国人差別を助長する可能性があります。少なくとも「不法滞在者」という用語は「非正規滞在者」といった別語に言い換えが可能と思われます。

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第47回)

レッスン10:国籍差別

レッスン10では、差別の四丁目一番地に当たる国籍差別(外国人・移民差別)に関する練習をします。

 

例題1:
[a]あなたの隣家に外国人一家が越してきたとして、近所付き合いをしてみたいと思いますか。

 

(1)思う
(2)思わない


[b]([a]で「思わない」と回答した人への質問)その理由は何ですか(自由回答)。


 本例題は、近所付き合いそのものが希薄化している時代にはあまり意義のない練習かもしれません。「私は隣家が日本人だろうと外国人だろうとおよそ近所付き合いなどするつもりはない」というならば、平等主義の“近隣絶交宣言”ですので、差別には当たりません。これも、地縁が希薄化した時代における一つの現代的な差別回避行為と言えるのかもしれません。
 

 そこまで徹底はしないけれど、外国人一家とは近所付き合いをしたいと思わないとしたら、なぜでしょうか。「外国人は言葉が通じないから」という実際的な理由なら差別とはひとまず無関係ですが、もし隣家の外国人一家が日本語を話せる人たちであったとしたら?
 「外国人は怖いから」という理由なら偏見的とはいえ、それは危険視であって、劣等視ではないから、辛うじて差別には当たりませんが、差別一歩手前の前差別行為には当たります。
 「外国人は日本の慣習を知らないから」という理由などもあり得ますが、それは事実である場合もあるにせよ―日本の慣習を熟知する外国人もいます―、付き合う中で日本の慣習を教えることもできますし、一方で、日本人側が外国人の慣習(特に宗教的慣習)を知り、尊重することも必要ですから、こうした文化的理由を持ち出す形の外国人忌避は転嫁的差別となります。
 

 一方、その隣家の外国人一家が黒人だからとか、アジア系だからといった理由で近所付き合いを忌避するのだとしたら、これは実は外国人差別の形式をまとった人種/民族差別であることになり、遡ってレッスン3の問題です。
 実際上、日本における人種/民族差別は直接的に表面化するよりも、こうした外国人差別の中に潜り込むような形で立ち現れてくる例がほとんどです。そのため、「日本社会に人種/民族差別は存在しない」という錯覚も生じやすいわけです。

 

例題2:
あなたがアパートの家主だとして、外国人が入居を申し込んできたら、入居を認めますか。

 

(1)認める
(2)国籍によっては認める
(3)認めない


 借家、中でも賃貸事業者のような法人組織ではなく個人の家主が提供する借家では、家主と借主の間の継続的な信頼関係が重視されるため、家主として借主の属性・素性に関心を持つのは自然なことです。
 それにしても、外国人の入居は一切認めないとなると、これはもはや「外国人は怖いから」というような危険視を超えて、外国人という属性そのものを劣等視し、排斥する差別とみなすほかありません。
 
 ただ、ここでも、例題1のような文化的理由のほか、「外国人犯罪集団のアジトに使われては困る」といった治安上の理由などが持ち出されることがあるかもしれません。こうした理由付けはいずれも一部の実例を一般化して取って付けているだけで、転嫁的差別行為の典型です。
 
 それでは(2)のように国籍によって区別するという妥協策はどうかと言いますと、これも国籍による外国人差別の問題を生じます。例えば、欧米系の国籍を持つ外国人なら認めるが、アジア・アフリカ地域の国籍を持つ外国人は認めないといった方針は、特定の国の国籍を持つ外国人を劣等視し、排斥することになります。そこには、例題1でも指摘した人種/民族差別が国籍差別に仮託する形で潜んでいるとも言えます。

 
 ちなみに、日本と国交のない国の国籍を持つ外国人は認めないといった方針になりますと、いささか微妙です。日本と国交がないということは、日本国と敵対関係にある国ということになりますから、政治が絡んできます。しかし、その入居申込者の素性が実際に疑わしいといった正当な理由がない限り、国籍のみを理由とする入居拒否は差別行為に当たると考えられます。

 結局、借家に関しては、日本国民と外国人とを区別すること自体が間違っていることになります。外国人でも長期滞在・居住を考える場合は、家を購入する資力がない限り、どこかに家を借りなければならない事情は日本国民と同様であることを考えれば、これは当然の事理でしょう。
 本来、国籍に限らず、しばしば発生しがちな入居者の属性による借家差別を防止するためには、借地借家法上、借家に当たっての差別禁止を定めた条項を置くことが望ましいと言えます。
 
 なお、例題としては取り上げませんでしたが、外国人の入店を拒否するような商店も一部にいまだ存在するかもしれません。裁判にまで至った過去の実例として、ブラジル人が宝石店への入店を拒否された事例や、アメリカ人が公衆浴場の利用を拒否された事例などがあります。
 借家とは異なり、継続的な信頼関係など必要ない店舗への短時間の立ち寄りや利用を外国人だからという理由だけで拒否するのは明白な差別です。これについては多言を要しないでしょう。

〈反差別〉練習帳[全訂版](連載第46回)

レッスン9:年齢差別

〔まとめと補足〕

 例題を通じて見ましたように、年齢差別は高齢者に対する差別と若年者に対する差別とに分かれています。厳密に言えば、高齢者に対する差別も、老齢者に対する差別と就職上の年齢差別に見られるように相対的な高年者に対する差別に分けることができますし、若年者に対する差別も未成年者に対する差別と若年成人に対する差別に分けることができます。本来は、例題もそうした細分類に従って分けた方がよかったかもしれませんが、都合により、そこまではしませんでした。

 
 いずれにしましても、年齢差別という現象は、人が早熟早死の時代や、現在でもそのような状況下にある社会では表面化してくることはありません。なぜならそのような時代ないし社会では若年期は短く、また高齢者は例外的な福寿者にすぎないからです。
 従って、年齢差別は人の寿命が延び、比較的長い若年期と極めて長い高齢期―「前期」と「後期」に分類されるほどの―を経験するようになって初めて顕在化してくる長寿社会の差別現象と言えるでしょう。
 

 このような長寿社会における年齢差別は、能力差別の応用分野という位置づけにあります。なぜなら年齢の高低は能力の高低と相関関係にあると考えられているからです。高齢者の場合は老化による能力低下、若年者の場合は未熟による能力不差別の根拠となっています。
 
 ただ、すべての差別に通低する視覚的表象による差別という本質が年齢差別にも備わっています。例題でも取り上げたアンチ・エイジングという語は、その反面において「しわくちゃ」「よぼよぼ」の老齢者の容姿を蔑視しています。また女性(場合により男性も)の就職における年齢差別には、より明白に(相対的な)高年者に対する容姿差別の要素が認められます。
 これに対して、若年者に対する差別には容姿差別の要素は希薄なように見えます。しかし、ここでも未成年者の場合は一般に身体が小さく、容貌も幼いことへの見下しの視線が一定は認められるのです。
 
 このように、年齢差別は能力差別的要素と容姿差別的要素とが交差する領域でもあると言えます。そこで、その克服には能力差別とともに容姿差別について述べたところがあてはまることになります。
 表象という観点から見ますと、高齢者と若年者が差別されることは、年齢に関しては両者の中間的な青壮年の成人が最も賛美されることの反面的な結果と言えます。結局のところ、―おそらくは世界中で―「青壮年の美形」が人間の理想型として表象されているのです。その理想型から外れていればいるほどに差別の標的となりやすいと一般的には言えます。
 
 とすれば、差別の克服にとって、こうした幻惑的な表象への束縛から人間をいかにして自由にすることができるかということが課題となります。その点で、一見すると年齢という生物学的・医学的な目に見えない要素を理由とする年齢差別においても、あの「内面性の美学」や「全盲の倫理」が改めて課題克服の鍵となることが見えてきます。